2014年1月18日土曜日

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「日本奥地紀行」を読む (32) 東京~春日部 (1878/6/10)

 

引き続き、1878/6/10 付けの「第六信」(本来は「第九信」)を見ていきます。

稲作

イザベラ一行は、やがて街道筋を離れ、農村部にやってきます。

何百人という男女の姿も、膝まで泥につかっていた。というのは、この関東平野は主として大きな水田地帯からなり、今が田植えの最盛期なのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.73 より引用)
イザベラがこの項を記した日付は 6 月 10 日(新暦)でした。現代だと田植えにはちょいと遅いかな? とも感じさせますが、当時はこれくらいの時期が一般的だったのでしょうか。田植えの時期が当時と比較して早くなっているのは、台風が多発する時期の前に稲刈りを済ませておきたい、という考えがあるからかもしれませんね。

さて、この田植えに関する描写で、普及版で削られた部分がありました。その一部を抜粋します。

 今にも芽が出るばかりまで水に浸された後の穀物の種子(籾)が、小さい諸区画[苗床]に厚く蒔かれ、毎晩2、3インチの深さに水が入れられますが、日中は乾燥させておくのです。苗がうまく発芽したら、魚滓ないし、廃油をその上にかけて成長を促進させると、およそ50日で苗床は3インチの高さの苗で覆われます。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.42 より引用)
「苗床」、あるいは「苗代」についての説明ですね。苗の肥料にも「魚滓」が使われていたとは知りませんでした。当時は肥料として使うくらい魚が多く獲れたのですね。ニシンか、ハタハタか、それとも……?

 米は一般に、斜面を棚田状にしたものに植え付けられるので、濯漑は簡単に得ることが出来ますが、この平地では難しく、持ち運びできるようにうまく工夫された「踏み車」によって、主用水路から、高くなっている狭い水路に苦労して揚水されています。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.42 より引用)
うーむ。棚田は斜面上に展開されるので、水の便などを得るのは手間がかかると思っていたのですが、確かに水路から水を引くのはある意味容易なのかもしれないですね。それにしても、イザベラがどこで棚田の知識を得たのかが少々気になります(まだ日本の山間部の景色には詳しくない筈)。

主要な水路から水を汲み上げるというのも、台地ならではの風景のように思えますね。日本では低湿地のみならず、ある程度の適地であれば創意工夫で稲作を実現しているというのは地誌的には面白いのですが、さすがに旅行記としては踏み込みすぎたと感じたのか、このあたりは普及版ではカットされてしまっています。

蓮の池もあった。そこでは、あの壮麗な花の蓮が、食用《!》というけしからぬ目的のために栽培されている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.74 より引用)
食用の「蓮」と言えば、蓮根(レンコン)のことが頭に浮かびますが、それとは別の話なのでしょうか。あ、蓮の実も食用になるんですね。イザベラの「けしからぬ目的」という表現が面白かったもので、つい引用してしまいました。

茶屋

イザベラ一行は、粕壁(春日部)に向かう途中で「茶屋」で休憩をとります。ここで、「茶屋」と「宿屋」の違いについてワンポイントレッスンが入ります。

外国人は、人を接待する日本の家のことを無差別に「茶屋」と呼ぶことはまちがいであることに注意したい。茶屋というのは、お茶や茶菓をとったり、それをいただく部屋を貸してもらったり、給仕をしてもらう家のことである。ある程度までホテルに相当するものは「宿屋」である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.74-75 より引用)
現代であれば、個室のある「喫茶店」はほぼ皆無に等しいでしょうが、たとえば「料亭」と「料理旅館」の違いを考えるとちょっと難しい話になるかもしれません。ただ、イザベラは決定的な回答を導き出しました。

許可証が違う。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.75 より引用)
お見事! これは一見悪い冗談のようにも見えますが、日本における物事の「きまり」を考える上では、実は本質的な理解なのかも知れません。

イザベラは、途中で立ち寄った茶屋の様子を、次のように記しています。

床は地面より約一八インチ高くしてある。これらの茶屋には、しばしば畳を敷いた壇があり、その中央には、土間と呼ばれる引っこんだ場所がある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.75 より引用)
えーと、いつものことですが、ヤード・ポンド法をメートル法に直しますと……。18 インチは 45.72 cm となりますね。確かに、一般的な日本家屋の床面は、地面から 50 cm ほど高いところにあります。多湿な日本においては当たり前の構造なのですが、イザベラの眼には「おっ、ちゃんとしてるな?」と映ったのではないかな、と思ったりもします。

そのまわりには、板間と呼ばれる磨いた木の棚が出ている。旅人は、これに腰を下ろし、茶屋に入ると直ちに出される水で彼らの汚れた足をすすぐのである。というのは、汚れた足や外国の靴をはいたままでは、一歩でも、畳の床に上がることはできないからである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.75 より引用)
ここでは、茶屋の和室に上がる際の「作法」について記していますが、現代の日本においても「玄関で靴を脱いで上がる」という作法は健在ですよね。我々日本人にとってはごくごく当たり前のことなので、その意義を考えることは滅多に無いのですが、畳を清潔に保つ……というよりは、和室に「ケガレ」を持ち込ませないための作法だったのかな、と思ったりもします。

旅人の接待

イザベラは、旅行中の食料は基本的に現地調達で考えていました。日本食を口にすることへの抵抗はさほどなかったのかな、とも思わせたのですが……

私たちが路傍の茶屋で休んでいる間に、車夫たちは足を洗い、口をゆすぎ、御飯、漬物、塩魚、そして「ぞっとするほどいやなもののスープ」(味噌汁)の食事をとった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.76 より引用)
これを見る限り、必ずしも全ての食事についてそうだったわけでは無さそうですね(笑)。お味噌汁、美味しいのになぁ。

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