2018年5月4日金曜日

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「日本奥地紀行」を読む (80) 新潟(新潟市) (1878/7/9)

 

今日からは、1878/7/9 付けの「第二十信」を見ていきます(普及版では「第十六信」に当たります)。

いやな天気

イザベラは、日光を 1878/6/24 に出発し、7/3 に新潟に到着しました。7/9 ということは、そろそろ一週間近く経ったことになりますね。

私は、新潟で一週間以上過ごしてきたが、残念ながら明日は出発する。残念というのは、町に興味があるからではなく、友人ができたからである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.190 より引用)
あれ、計算上はちょうど一週間なのですが、どこかで計算を間違ったでしょうか。日記の記載を参考に日付を割り出しているつもりですが、間違っていたなら申し訳ないです。そしてイザベラが出発を「残念ながら」とした理由について触れられていますが、これはファイソン宣教師の奥さんのことでしょうか。

この一週間ほどいやな天気を経験したことはない。太陽は一度だけ顔を出したが、三〇マイル離れている山々は少しも姿を見せなかった。雲は茶色がかったねずみ色をしており、空気はどんよりとして湿っぽく、日中の温度は八二度で、夜は八〇度に下がる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.190 より引用)
ふーむ。新潟がそれほど天気の悪い場所だという印象は(個人的には)無いのですが、イザベラがいたのは梅雨時ですからね。……今から思えば、何故この時期を選んでしまったのでしょうか。梅雨前線と歩調を合わせて北上するというのは、良く考えると愚の骨頂であるようにも思えます。

ちなみに「華氏 80 度」は「摂氏 27 度」で、「華氏 82 度」は「摂氏 28 度」です。まぁ暑いと言えば暑いですが、夏ですからこんなものかな、という気もします。

人を悩ます虫

そして、久々にイザベラ姐さんの虫にまつわる受難話が戻ってきました。もはや定番の話題ですが、この話題が出てくると「奥地紀行だなぁ」と思わせてしまうのですから困ったものです。

夕方になっても涼しくはならず、無数の虫が、飛んだり這ったり、はねたり、走ったりする。みな人の肌を刺すものばかり。日中の蚊と交代にやってくる。まだらの脚をもつ悪者で、プンプンという警告もたてずに、人間に毒針を刺す。夜の蚊は大群をなしてくる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.190 より引用)
そう言えば、昔は夕方になると窓を開けて網戸にしたものでした。網戸があるから虫は入ってこない筈なのですが、なぜか気がついたら室内に蚊が飛んでいた……なんてことが多かったですね。胴体が縞模様の蚊が最も始末に負えない……なんて話があったように記憶しています。

町で歩くところは街路と公園しかない。というのは、新潟はまるで熱くて裸の砂の岬の上に建てられた町だからである。木造の物干し台の上にまで上らないと、町の景色が見られない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.190 より引用)
確かに地理的な歴史を考えると、新潟は信濃川(と阿賀野川)が運んできた砂で形成された土地の筈なので、イザベラの表現は正しい……と言えそうですね。「木造の物干し台」に風情を感じてしまいます。

外国貿易のない港

久々の「ブライザベラ」が続きます。

新潟は開港場ではあるが、外国貿易はなく、外国人居留者もほとんどいない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.190 より引用)
当時の日本は段階的に開国を進めていた時期だったでしょうか。新潟は日本海側では事実上唯一の開港場だった筈ですが、地理的な問題からか、ほぼ外国との接点は存在しなかったようですね(ロシアであれば函館のほうが近いので)。

昨年も今年も、外国船は一隻もこの港を訪れていない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.190-191 より引用)
あー。一体何のために開港したんだか……。

頑固な川

そして、外国商社の話題に続いて、突然次の文が出てきます。

その川は信濃川と呼ばれ、日本最大の川である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.191 より引用)
あまりに何の脈略も無かったので、原文を確かめてみたのですが……

Its river, the Shinano, is the largest in Japan,
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
割とそのままでした。Its は「新潟の」という意味なんですかねー。「信濃川は日本一の川」という情報は、確かに流長がもっとも長いということで正確な情報なのですが、当時から周知の事実だったのでしょうか。

技師たちは信濃川に対して大いに心をくだいており、政府はきわめて熱心で、この水路を深めて、西日本(裏日本)が現在もっていないもの、すなわち港湾をつくろうとしている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.191 より引用)
新潟は信濃川(と阿賀野川)の堆積土砂でできている……という話がありましたが、河床に堆積した土砂は大型船の航行の妨げとなります。遠浅の砂浜を掘削して港を建設するという例はいくつか見られますが、新潟においても事実上同じような問題を抱えていたのですね。

信濃川の「大河内分水」が完成したのは 1922 年のことだそうですが、計画自体は享保年間(1716 ~ 1736 年)の頃から存在していたのだそうです。もっとも新潟(の市街地)の住民は「信濃川の水量が減るのは死活問題だ」として計画に反対の立場を取るものが多かったとのこと。現在でも堆積土砂にまつわる問題があったように記憶していますが、残念ながら詳細は失念してしまいました(汗)。

さて、1878 年の新潟に戻りましょう。

それができるまでは、平底帆船と、外側に寄港する少数の小さな日本汽船によって、わずかばかりの海上交通があるだけである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.191 より引用)
結果的には、現在もほぼ似たような状況に戻ったと言ったところでしょうか。もちろん自動車が普及したこともあり、もはや「平底の帆船」の姿を見ることはありませんが。

当時の新潟は、条約で認められた開港地でありながら、貧弱な港湾構造のために僅かな海上交通が存在するのみだったようです。これはイザベラにとって計算違いだったようで、以下のようなトラブルがあったとのこと。

*原注──旅客設備のない日本のこのような汽船で、私が荷物を一つ函館へ送ろうとしたとき、外国人が当惑させられる煩わしい制限にぶつかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.192 より引用)
まぁ、妙なところで融通が効かなかったりするのは日本の悪しき伝統の一つと言えそうですが、このピンチをどう切り抜けたかと言うと……

私は、伊藤が自分の名義で自分のちょっとした知り合いの函館の日本人に送るということで、やっとそれができたのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.192 より引用)
今回も「伊藤少年ぐぅ有能」というオチだったようです。こういったエピソードを見ると、改めて彼の有能ぶりが際立ちますね。

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