2018年7月16日月曜日

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「日本奥地紀行」を読む (81) 新潟(新潟市) (1878/7/9)

 

引き続き 1878/7/9 付けの「第二十信」を見ていきます(普及版では「第十六信」に当たります)。

進歩

イザベラは、新潟の地理的な特徴を実体験を紐解きつつマニアックに記していましたが、一歩引いて(?)観光ガイド的な内容にシフトしました。

しかし新潟は美しい繁華な町である。人口は五万で、富裕な越後地方の首都である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.192 より引用)
前にも記したような気がしますが、2015 年の新潟市の人口は約 80 万人とのこと。市域も広がっているので一概には言えないでしょうが、随分と発展したものです。

越後は人口百五十万で、新潟はその県令《県知事》のいるところで、主要な裁判所や、りっぱな学校、病院、兵営がある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.192 より引用)
新潟県の現在の人口は約 225 万人とのこと。こちらも 1878 年と比べると増加していますが、新潟市のように「16 倍!」というわけでは無いですね。

このように隔絶された町に、大学という名にふさわしい学校が見られるのは興味深いことである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.192 より引用)
それは「新潟」がそれだけ重要な都市だったからじゃないですか……と言うのは簡単ですが、そう言えば新潟の歴史にはあまり詳しくないことに気づきました。

幕末から明治にかけての「開港地」を思い出してみると、横浜、神戸、長崎、函館と新潟だったでしょうか。どの街も今日でも「港町」として知られますが、そう言えば「新潟」の街の存在をちゃんと認識したのは明治の頃からのような気がします。ほら、「越後」と言えば「上杉謙信」で、謙信と言えば「春日山城」で、現在の「上越市」じゃないですか。

まぁ、出島のあった長崎は別格として、神戸は昔の日宋貿易や日明貿易(でしたっけ)で栄えた「福原」がルーツですよね。横浜は東京の手前の「緩衝地」ですし、函館は「蝦夷地」の入口ですよね。新潟が「港町」として選ばれたのは、理解できなくは無いのですが、ちょっと不思議な感じもします。

それに含まれているのは、中学校、小学校、師範学校があり、英語学校は英米人教師が組織し、百五十人の生徒がいる。さらに工業学校があり、地質学博物館や、すばらしい設備の研究所があって、最新で最も定評のある科学的・教育的器具が備えつけてある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.192 より引用)
つい羨望の眼差しで見てしまいますね。明治の頃はちゃんと教育に投資してたのになぁ……と思わず愚痴ってしまいたくなります。さらにはヨーロッパの医者によって設立された病院がある……と言うのですが、

*原注──この病院は大きくて、換気もよいが、まだ多くの入院患者が殺到するまでに至っていない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.193 より引用)
これは病人が少なかったわけではなく、西洋式の病院自体がまだ「得体の知れないもの」と認識されていたのでしょうね。

外来患者、特に眼炎を患っている者の数は非常に多い。この地方に病気が非常に蔓延しているのは、湿気の影響と、日光が砂や雪に強く反対するためと、不適当な換気、炭火のガスによるものであると、日本の主任医師は考えている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.193 より引用)
ふーむ。常日頃から煤煙の横で生活するような感じだったのだとしたら、確かに目には悪そうですよね。気温が低く積雪が多いことがどちらもマイナスに働いている、と言ったところでしょうか。

新潟の市街地は横浜や神戸、長崎や函館と同様に多くの洋館が立ち並んでいたようです。ただ、それがイザベラの目にはどのように映ったかと言うと……

この病院と県庁、裁判所、諸学校、兵営、そしてそれらすべてに劣らず大きな銀行とがあり、みなヨーロッパ風の建物で、進取的で、ひときわ目立つが、けばけばしくて味気がない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.193 より引用)
イザベラ姐さんの歯に衣着せぬ一撃が久しぶりに飛び出したでしょうか(汗)。

イザベラは、再び地誌的な指摘に立ち返ります。

しかし、日本で最も富裕な国の一つの首都である新潟は、思うようにならぬ信濃川のために、天然の往来ともいうべき海上交通からいつも阻まれているので、のけ者にされている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.193 より引用)
新潟のフェリーターミナルは信濃川の河口部にありますが、河口なので土砂の堆積に気を配る必要もあり、とても「天然の良港」と呼べるものでは無かったように思えます。……だからこそ、何故「開港地」に指定されたのか、というのが謎だったりするんですよね。

新潟が「海上交通からのけ者にされている」というイザベラの指摘ですが、最大の目的地(東京)が山の向こうだったという点も考慮すべきでしょう。

そこで越後国それ自体としては、米、絹、茶、麻、人参、藍を多量に生産するばかりでなく、金、銅、石炭、石油も産出するから、その産物の大部分を江戸に送るために、駄馬にのせて山脈を越えて運ばなければならない。しかもその道路は、私が辿って来た道と変わらぬほどひどいものである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.193 より引用)
国道 291 号に指定されている「清水峠」という道路がありますが、まる四年の工事で完成した道路も(一説では)ひと冬を越した後は各所で崩壊し実用に堪えなかったと言われています。ちなみにこの「清水峠道路」の整備が決定したのが他ならぬ 1878 年とのことなので、イザベラが新潟にいたタイミングでは着工されていなかったことになりますね。

日本の都市

イザベラの「新潟観察」はさらに続きます。

新潟の官庁街は、西洋式に文明開化の姿を見せているが、純日本式の旧市街とくらべると、まったく見劣りがする。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.193-194 より引用)
イザベラは官庁街を「けばけばしくて味気がない」と評していましたが、どの辺が「まったく見劣りがする」としたのでしょう……?

旧市街は、私が今まで見た町の中で最も整然として清潔であり、最も居心地の良さそうな町である。そして、外国人居留地によく見られる押しあいへしあいの光景が少しも見られない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.194 より引用)
「外国人居留地によく見られる押しあいへしあいの光景」というのは、具体的にはどういったものだったのでしょう。比喩表現ではなく、実際に「押し合い圧し合い」が良く見られたということなんでしょうか。

ここは美しい料亭が多いので有名であり、遠くの地方から訪れてくるものが多い。また劇場がりっぱで、この町は娯楽の一大中心地となっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.194 より引用)
ふーむ。倉敷の「美観地区」のような良さが感じられたのでしょうか……? イザベラは新潟のことを「首都」と評したり「隔絶された町」と評したりしていますが、地理的に隔絶されていたからこその繁栄、と捉えることもできそうな気がします。コンパクトだけど割となんでもある……と言った感じだったのかもしれません。

町は美しいほどに清潔なので、日光のときと同じように、このよく掃ききよめられた街路を泥靴で歩くのは気がひけるほどである。これは故国のエディンバラの市当局には、よい教訓となるであろう。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.194 より引用)
賛辞の裏で故国の都市清掃状況にチクリと入れるあたり、イザベラ姐さん流石ですね……!

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