2016年11月3日木曜日

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「日本奥地紀行」を読む (62) 川島(南会津町) (1878/6/26)

 

引き続き 1878/6/30 付けの「第十二信」(本来は「第十五信」となる)を見ていきます。イザベラ一行は半ば力尽きる形で「川島」(現在の南会津町)の宿屋にたどり着きましたが……

さらにひどく

イザベラは、「カヤジマ」こと川島での宿を「藤原のときよりもずっとひどい設備の宿」と評しましたが、具体的にはどのような点で酷かったのでしょうか。まずは導入部の最初の文から見てみましょう。

宿屋はまったくひどかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.158 より引用)
姐さん、のっけから飛ばしてますね……(汗)。

台所では、土を深く掘った溝に大きな薪を入れて燃やしていたが、ひりひりする煙があたり一面に充満していた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.158-159 より引用)
はいはい。土間で薪を燃やしていたのですね。「ひりひりする煙」というのは実に的確な表現に思えます。

私の部屋はがたぴしの障子で仕切ってあるだけだったから、その煙から免れることはできなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.159 より引用)
風通しの良さが日本家屋の特徴ですから、こればかりはどうしようも無いですね。もちろん、明らかに居住性に難があることを否定するつもりはありません。

垂木は、煤と湿気で黒光りしていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.159 より引用)
これなんですが、意図的に煤を付着させたままにしている場合もありますよね(一種のコーティング材のような感じで)。

宿の亭主は、私の部屋の床に跪いて、家が汚いことをしきりに弁解していたが、あまりくどく言うので伊藤が追い返した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.159 より引用)
伊藤少年が宿の主人を追い返したのは、弁解したところでどうなるものではない……と考えたのかと思ったのですが、

伊藤は、自分自身の安楽な生活を大切なものと考えている男であるから、亭主と召使いたちを呼びつけて声高くどなり始め、私の持ち物まで投げだして叫ぶありさまとなった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.159 より引用)
あららん。こればかりは若気の至りだったと思いたいものですが……(汗)。イザベラ姐さんもこれには不愉快になったのか、

私はこのような振舞いを早速やめさせた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.159 より引用)
イザベラはこの後に、「召使いが乱暴に人をいじめるのは、外国人にとってまったく耐えられないことであり」と続けています。「外国人」という単語が出てきたのが少々意外だったのですが、原文を見ると foreigner となっているので誤訳ではなさそうな感じですね。

亭主はとても礼儀正しく、私の方に近づくときは必ず膝をついたままであった。習慣に従って、彼に私の旅券を渡すと、彼はそれを額に押しいただき、こんどは額を地にすりつけた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.159 より引用)
宿屋の主人の挙動を見た限りでは、外国人旅行者に対する「畏敬」ではなく「畏怖」があったように思えてなりません。「地獄からの使者」がやってきた、と言った風に感じていたのではないでしょうか。

米作人の休日

どことなくルロイ・アンダーソンの「トランペット吹きの休日」のようなサブタイトルですが……(ちょっと違うか)。イザベラ姐さんは引き続き飛ばしまくります。

部屋は暗く汚く、やかましく、下水の悪臭が漂って胸がむかむかした。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.159 より引用)
暗くてやかましくて下水の悪臭が漂う部屋なら、私も一度泊まったことがあります。暗くてやかましいのはある程度我慢できるにしても、悪臭だけはなかなか我慢できないものがありますよね。さて、憤懣やる方ないと言わんばかりに飛ばしまくっているイザベラ姐さんですが、

不幸にも、宿の部屋はそういうものが多い。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.159 より引用)
さすがですね。早くも真理に到達していました。そしてささっと話題が変わって……

田植えが終わると二日間の休日がある。そのときには、米作り農家の神である稲荷に多くの供物があげられる。人々はお祭り騒ぎをして、一晩中飲んで浮かれていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.159 より引用)
イザベラが川島にやってきたのは 1878 年 6 月 26 日のことだったと思われるのですが、山間だからか、かなり田植えの時期は遅かったのですね。

なお、日本が旧暦から新暦に移行したのは 1873 年のことですから、この「6 月」は現代における「6 月」と違いはないと見て良さそうです。思いっきり梅雨時のような気もしないでも無いのですが……。

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