2023年5月4日木曜日

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「日本奥地紀行」を読む (147) 土崎港(秋田市)~虻川(潟上市) (1878/7/26)

 

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十五信」(初版では「第三十信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

港の可能性

北に向かって出発した筈が、何故か「土崎神明社例祭」で女性の首が切られるのをエンジョイしていたイザベラですが、ようやく……今度こそ本当に出発したようです。

 私たちはおとなしい性質の馬に乗って出発した。山形県のあの獰猛どうもうな奴とは全くちがった馬だった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.278-279 より引用)
「山形県のあの獰猛な奴」とは……。これまでイザベラは何度も馬では苦労していたので、馬に関するエピソードには事欠かないのですが、もしかすると東置賜郡川西町での出来事でしょうか。気になった人は「「日本奥地紀行」を読む (101) 小松(川西町)~洲島(川西町) (1878/7/14)」をチェックです!

ミナトから鹿渡カドまでの間の左手に、非常に大きな潟がある。約一七マイルの長さで、幅は一六マイルである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.278-279 より引用)
「鹿渡」は現在の山本郡三種ちょう、かつては山本郡琴丘まちだったところで、JR 奥羽本線に「鹿渡駅」があります。「左手の非常に大きな潟」は、かつては日本で二番目に大きな湖だった八郎潟のことです。「約 17 マイル」が南北の長さだとすれば概ね正しいですが、幅が「16 マイル」というのはちょっと認識違いがありそうです(珍しい……?)。

八郎潟は、狭い水路で海と連絡し、真山シンザン本山ホンザンと呼ばれる二つの高い丘に守られている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.279 より引用)
この「真山」と「本山」がどの山を指しているのか、しばらく理解できなかったのですが、どちらも男鹿半島(海の近く)に現存するんですね。真山・本山と八郎潟の間は 17 km ほど離れていて、間にある「寒風山」のほうが有名な気もするんですが……。

現在、二人のオランダ人技師が一雇われていて、潟の能力について報告する仕事に従事している。もし莫大な費用をかけずに水の出口を深くすることができるならば、北西日本できわめて必要としている港をつくることができるであろう。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.279 より引用)
おっ、そんな話があったのですね。八郎潟は「食糧増産」に目が眩んで派手に干拓してしまいましたが、逆に掘り下げて港湾にしようという話があったのは知りませんでした。まぁ、簡単に掘り下げることができるなら苦労はしないという話もありますが……。

道路に沿って、広々とした水田や多くの村々がある。この街道は、深い砂と、大分ねじり曲がった古い松の並木道である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.279 より引用)
そう言えば、江戸時代の街道には松の並木が付きもの……というステレオタイプな認識があるんですが、何故松なのか、そして最近はあまり見かけないのはどうしてなんでしょう?

この松並木の下を、何百人という人々が、馬に乗り、あるいは歩いて、すべての村々からミナトにぞろぞろ向かっていた。誰もが、四日も続いた雨の後のすばらしい日光を浴びながら嬉しそうであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.279 より引用)
ん……? この「ミナト」は土崎港(秋田港)のことでしょうか? あ、これはイザベラの進行方向とは逆に、という意味なんですかね。であれば「土崎神明社例祭」に向かっていたということになります。

両側に荷籠がさげてあり、どちらにも二人のまじめで品のいい顔をした子どもが乗っている。ときには荷鞍の上に父親か、あるいは五番目の子が乗っている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.279 より引用)
鞍の両側に荷籠を下げて、荷籠の中にはちょこんと子供が収まっている……ということですね。4 人の子供、あるいはその親と荷籠に入り切らない子供を乗せて歩くとは、馬って随分とタフなんだなぁ……と感心してしまいますが、そういや馬ってタフでしたよね(何を今更)。

 私はとても気分がよくなかったので、虻川というみすぼらしい村で一泊せざるをえなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.279 より引用)
この「虻川」ですが、どうやら現在の潟上市飯田川下虻川(以前の南秋田郡飯田川まち)みたいですね。久保田(秋田市)からは 20 km ちょいの距離なので、のんびり歩いたとして 5~6 時間ほどでしょうか。あまり距離を稼げなかった印象がありますが、気分がすぐれなかったのであれば仕方がないでしょうか。あ、もしかして:雅楽のせい?

屋根裏の部屋で、蚤が多かった。米飯はとても汚くて食べる気がしなかった。宿のおかみさんは、私と同じ畳の上に一時間も坐っていたが、ひどい皮膚病にかかっていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.279 より引用)
やはり都会(久保田)から少し離れただけで、衛生レベルがガタっと落ちるんですね……。

このあたりではもはや壁土の家はなく、村々の家屋はみな木造であったが、虻川村は古ぼけた倒れそうな家ばかりで、家を棒で支え、斜めになったはりは道路に突き出て、うっかりすると歩行者は頭を打つほどであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.279-280 より引用)
「梁」は本来水平に架してあるものなので、それが斜めになっているとするとかなりヤバい状態ですね……。このあたりは生活が相当厳しかったことを伺わせます。

村の鍛冶屋

体調不良により虻川(潟上市)での一泊を余儀なくされたイザベラでしたが、宿の向かいに鍛冶屋があり、その仕事ぶりを眺めていました。

 向かい側には村の鍛冶屋があったが、その主人は堂々たる体謳の持ち主でもなく、私たちが子どものころタッテンホール(著者の育った英国チェシヤ州の村)の鍛冶屋で楽しく見ていたあのすばらしい火花の散るところは見られなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.280 より引用)
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」というニーチェの警句がありますが、この日のイザベラは「鍛冶屋をのぞく時、村人はこちらをのぞいているのだ」状態だったようです。

私の家の前には裸同様の姿をした村中の人々が口を開けたまま黙ってじっと見つめながら一晩中立っていたけれども、私は縁側から鍛冶屋の光景に見とれていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.280 より引用)

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