2019年8月12日月曜日

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「日本奥地紀行」を読む (90) 新潟(新潟市)~中条(胎内市) (1878/7/10)

 

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在しますが、今日からは、1878/7/12 付けの「第二十二信」を見ていきます(普及版では「第十七信」に当たります)。



新潟の運河

イザベラが新潟に入ったのは 1878/7/3 のことで、一週間の滞在の後、1878/7/10 に新潟を出発した……という計算になろうかと思います。完全版には「新潟での伝道に関するノート」や「食べ物と料理に関するノート」が含まれるため、新潟に入ってから随分と長く滞在したような印象を受けますが、一週間程度だったんですね……。

私が新潟を去るとき、大勢の親切そうな群集が運河の岸までついてきた。外国の婦人と紳士、二人の金髪の子ども、長い毛をした外国の犬がお伴をしてこなければ、人目を避けることもできたであろう。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.199 より引用)

「外国の婦人と紳士」は宣教師のファイソン夫妻で、「二人の金髪の子ども」は夫妻のお子さんだったようです。「親切そうな群衆」は、人づてに(おそらく出どころはファイソン夫妻でしょう)イザベラの出発を聞き、別れを惜しんで集まった、と言ったところなのでしょう。外国人の居住が許された「国際都市」の新潟でも、イザベラのような旅行者がふらっと訪れることはそれほど無かった、ということなんでしょうね。

ひどい淋しさ

イザベラはファイソン夫妻一家との別れが寂しかったのか、あるいは善意の群衆との別れが寂しかったのか、船の上でひどい寂寥感に襲われたと言います。

平底帆船が信濃川の広くて渦巻く本流の中に出たとき、私は、ものすごく淋しい気持ちに襲われた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.199 より引用)

イザベラを乗せた平底帆船は信濃川を下り、今の新日本海フェリー・新潟フェリーターミナル(山の下埠頭)のあたりから「通船川」に入りました。

私たちの船は、信濃川を横切り、狭くて築堤をした新川を遡った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.199 より引用)

「狭くて築堤をした新川」が、通船川のことだと考えられます。この川は信濃川と阿賀野川を結ぶ川で、信濃川寄りには「山ノ下閘門」が存在します。水位の違いが若干あるということなのでしょうか。

通船川で「新川町」のあたりを通って阿賀野川に出たイザベラ一行は、通船川と同様に阿賀野川と東隣の新井郷川を結ぶ「加治川」を通って新井郷川に出た、と考えられます。

狭くて、汚れた加治川では、胸をむかむかさせるような肥船が次から次へ続いてきて、たいへん手間どった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.199 より引用)

阿賀野川と新井郷川をを結ぶ「加治川」は、現存する流れとは別に北側に旧河川も存在したように見受けられます。イザベラが「狭くて、汚れた加治川」と記した川は、どっちだったのでしょうか。

礼儀正しさ

イザベラは、(明記はされていませんが)新発田川を遡って「木崎村」(新潟市北区、かつての豊栄市)にやってきました。

船は棹を使って六時間ほど難航した後に木崎に着いた。正確に一〇マイルきたことになる。それから三台の人力車を走らせて、二〇マイル進んだ。一里につき四銭五厘という安い料金であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.199 より引用)

木崎からは人力車で東に向かったようですね。現在の県道 3 号「新潟新発田村上線」に近いルートを通ったと考えられそうでしょうか。

ある場所では道路に板戸をして閉鎖してあったが、旅行者が外国人であることを村長に説明してやると、ていねいに通行を許可してくれた。駅逓係がこんなに遠くまで私についてきて、私が無事に旅行できるように取りはからってくれたからである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.199-200 より引用)

明治 11 年の日本は、まだ自由に旅行ができない情勢だったのでしょうか。

今日の旅行では、街道はどこも人家がかなり多かった。農業を営む村が長く続いていて、築地、笠柳、真野、真里などは清潔な部落であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.200 より引用)

「笠柳」は現存する地名です。「真野」は聖籠町真野でしょうか。「真里」(Mari)という地名は確認できませんでした(「真中」はあったのですが)。そして中条の西に「築地村」(Tsuiji)があったのでした。イザベラの記述は必ずしも順序通りではなかった、ということでしょうか。

全体として楽しげな地方であり、人々は着物をほとんど身につけていないが、貧乏そうにも見えなかったし、非常に不潔な感じもしなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.200 より引用)

イザベラが人力車で走り抜けたルートは現在の県道 3 号で、古くから道路の両側に人家が立ち並ぶ道だったようです。人々は半裸に近い格好ながら、イザベラの目にはそれほど貧乏そうには見えず、また不潔にも思えなかったとあります。イザベラはこの先の山間部で人々の貧しい暮らしを再び目の当たりにするので、「山間部と比べると」明るく朗らかに暮らしているように見えた、ということなのでしょうね。

りんごや梨の広々とした果樹園は、八フィートの高さの棚に横に這わせてあり、珍しい風景となっていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.200 より引用)

あ、果物の収穫に際してちょうど手の届く高さに枝を這わせる……というのは現在でも広く行われていますが、明治の初頭には既にそういったテクニックが広く普及していたのですね。一体いつ頃から始まった技術なのでしょう。

パーム博士の二人引き人力車

この先を読みすすめるとわかるのですが、イザベラは海沿いの鼠ヶ関方面を北に向かったのではなく、荒川沿い(JR 米坂線沿い)を遡るルートを選んでいます。そのため、イザベラは「山の方に向かって」と記しています。

 東方には山頂まで森林におおわれた山脈が走っており、私たちは、その山の方に一日中向かって進んで行ったが、樹木もそれほど多くならず、米田も少なく、空気は乾燥していて、気分が休まらなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.200 より引用)

「空気は乾燥していて」というのはちょっと意外な感じがするのですが(だって 7 月ですよ?)、海沿いの砂丘は思いの外水はけが良かった、ということだったのでしょうか。

松林の砂丘の上を私の車夫が楽しげに駆けて進んでいるとき、パーム博士の人力車に出会った。彼は、医療を兼ねた伝道からの帰り途で、二人の裸の車夫が並んで非常なスピードで走ってきた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.200 より引用)

偶然なのか、あるいは予期されていたことなのかは不明ですが、新潟で伝道活動を行うもう一人の宣教師だったパーム医師との再会を果たしたようです。人力車が通ることができる道路はそれほど多くなかったでしょうから、どこかですれ違うであろうことは十分に計算できたことなのかもしれません。イザベラは、パーム医師との邂逅に思うところがあったようで、次のように記していました。

私はこれから数週間の間ヨーロッパの人には会わないであろう。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.201 より引用)

さて、何を根拠に「数週間」としたのでしょうか。記憶しておこうと思います(忘れそうな気もしますが)。

イザベラがパーム医師とすれ違ったのは築地の手前での出来事だったようです。イザベラは築地から東にある中条に向かうことになります。

築地という非常にきれいさっぱりした村で人力車を乗りかえて、ここから砂利道をがたがた揺られながら中条というかなりの町に向かった。外国人は新潟からここまでが条約で許された範囲となっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.201 より引用)

新潟における外国人の「活動範囲」は、協定により「新潟から 25 マイル以内」に制限されている、とイザベラは以前にも記していました。新潟駅から中条駅まで、県道 3 号経由での距離を Google Map で確認したところ 39.7 km とのこと、確かにギリギリ 25 マイル(≒ 40 km)以内ですね。

中条にはパーム医師の「弟子」による「施療院」が存在するとのこと。西洋医学を取り入れた治療は一定の成果をあげていたようですが……

彼らはイギリスの医学を学んだ人たちで、パーム博士の指導の下に、今では防腐法を採りいれた治療に成功している。何回か滑稽な失敗もあったが!
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.201 より引用)

どのような「滑稽な失敗」があったのか、話を聞いてみたいものです。

仏教に浸る新潟の中条

ここからは「普及版」で削除されたセクションです。「普及版」でバッサリ削除されたセクションは、パトロンへのレポートとしては適切でも旅行記としては不適切な内容だったりすることが多かったのですが、ここも……まぁ、そう言われてみればそうかもしれません。

なお、「仏教に浸る新潟の中条」という小見出しは高畑美代子さんの「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」のものを引用していますが、これは「便宜的な小見出し」とのこと。なるほど、確かに原典にはそのような小見出しは存在していません。

 中条は神道の盛んな場所にも関わらず、その日一日中、私はその地域が「仏教漬け」になっている徴候に気がつきました──緑樹の茂る神殿の脇道にあるたくさんの絵馬のあがっている寺の流れるような屋根、道端の仏像、また神殿の前で実際に人々が祈祷をあげていた例があります。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.72 より引用)

神仏習合というか、神仏混淆の極みなんでしょうが、「そう言えば絵馬って神社だっけお寺だっけ」と混乱してしまったのも事実です。本来は神社に奉納するものだったんですね(何を今更)。イザベラにしてみれば、この一節は当時の日本が宗教的に混沌とした状態にある……というレポートであり、旅行記としての本質には欠けている、と判断してカットしたのかもしれません。

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