2019年9月16日月曜日

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「日本奥地紀行」を読む (91) 中条(胎内市)~ ? (1878/7/10)

 

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在しますが、今日は引き続き、「普及版」をベースに「第二十二信」を読み進めます。



騒々しいお祭り

イザベラ一行は、胎内市中条から胎内川の向かい側にある黒川に向かっていました。黒川には鉄道の駅はありませんが、国道 7 号が通っています。

車夫はいつも町や村を駆けぬけるので、私たちの人力車は中条の町を駆けて通り、並木道に沿って小雨の中を走った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.201 より引用)

ちょっと意味するところが不明に思えたので、原文を参照してみたところ……

We dashed through Nakajo as kuruma-runners always dash through towns and villages,
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)

あーなるほど。厳密に誤訳と決めつけるものではありませんが、もっといい訳ができそうな文章にも思えます。時岡敬子さんはこの文を次のように訳されていました。

クルマは町や村を通るときはいつもそうするように、中条の町を駆け抜け、
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.301 より引用)

個人的には、この訳のほうがしっくり来るかな、と思います。

三、四本も深く植えこんである樅(松)の並木道は中条から黒川まで続いている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.201 より引用)

「樅(松)」とはこれいかに……と思ったのですが、これは原文に fir とあったのを「樅」と訳したものの、実際には「松」だよね、ということで「樅(松)」としたようです。高梨さんのグッジョブだったのですね。

それから先の数マイルはがたがた揺られながら谷間の低湿帯を進んだ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.201 より引用)

黒川は扇状地の扇央に近いところなので、「谷間の低湿帯」というのはちょっと解せないのですが……(でも確かに over a damp valley とあるんですよね)。

私たちは、危ない橋を渡って砂利の多い黒川の二つの支流を横切って、黒川という町に入った。町には旗や提灯が多く飾ってあり、町の人々はすべて神社に集まっていた。太鼓の音もにぎやかで、数人の少女たちは厚化粧をして、屋根のある高い舞台で舞っていた。これは土地の鎮守の神様を祀るマツリであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.201 より引用)

イザベラが黒川の街にやってきた日は、ちょうど夏祭りの日だったようです。

がたがた揺られる旅

この日、イザベラは最終的にどこに泊まったのか、文章だけでは今ひとつ釈然としないところがあるのですが、もしかしたら坂町(村上市)あたりで一泊したのでしょうか(その後のルートを考えると、胎内川沿いを遡った可能性も僅かにあるのですが)。

ここをまた出て、たそがれどき、松の並木の中を情け容赦もなくがたがた揺られながら、ある一軒家に着いた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.201 より引用)

理由は不明ですが、「ある一軒家」についての情報が少ないんですよね。もしかしたら、「ある一軒家」の家主が少し面倒くさそうな人だったから……でしょうか。

そこの主人は、許可が明日以降のものだから、と言って、なかなか私たちを内にあげようとしなかったが、ようやく折れて私に二階の一室を提供した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.201-202 より引用)

なんとまあ杓子定規な……と溜息をつきたくなりますが、一方で事前の手配が不行届きだった……とも言えるわけで。このあたりのコーディネートは全部伊藤少年が行っていたのでしょうか? 年齢の割にはその能吏ぶりがめちゃくちゃ光る伊藤少年ですが、少しくらいは人間味のあるエピソードがあってもいいですよね。

この部屋は天井までかっきり五フィートで、私が帽子をかぶって真っ直ぐに立つことができないほどであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.202 より引用)

文庫版の挿絵を見ると、イザベラは結構な偉丈夫……ではなくて大柄……いやいや、割と背が高いように見えます。Wikipedia では「満州民族の衣装を着たバード」という全身の肖像画をみることができますが、この肖像画を見た感じでは 160 cm くらいはあったんじゃないかな、と思わせます。当時の日本人は今よりも一回り、あるいは二回りくらいは小柄でしたから、イザベラは、相対的に見て身長が高かったと言ってしまって良いかと思います。

ただ、イザベラの「かっきり五フィート」という記述を信用するなら、天井までの高さは 152 cm しか無かったことになります。イザベラは「帽子をかぶって真っ直ぐに立てない」と言っていますが、仮にイザベラの身長が 160 cm あたりだとすれば、帽子をかぶるどころの話ではなくなりますね。

主人はまた雨戸を閉め切ってしまい、部屋を息苦しいものにした。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.202 より引用)

これはまた、なんと気が利かない……と思ったのですが、宿屋の主人には次のような言い分があったとのこと。

いつも出される理由だが、開け放しておくと泥棒が入るかもしれないし、そんなことになったら、警察からひどいお叱りを受けるばかりでなく、盗まれた持ち物をわざわざ取り返してもくれないだろう、というのであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.202 より引用)

なるほど、当時の日本の治安はとても良いものとは言えなかったのですね。そして治安も然ることながらとても豊かだったとも言えなかったようで、

米飯がないというので、私はおいしいきゅうりをごちそうになった。この地方ほどきゅうりを多く食べるところを見たことがない。子どもたちは一日中きゅうりを誓っており、母の背に負われている赤ん坊でさえも、がつがつとしゃぶっている。今のところきゅうりは一ダース一銭で売られている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.202 より引用)

米が無いので、代わりにきゅうりをご馳走になったとのこと。明治初頭の日本がいかに貧しかったか、いかに疲弊していたかが如実にわかるエピソードですね。

最後に、イザベラは旅行者向けにアドヴァイスのようなものを記していました。

 暗くなってから宿屋に到着するのは間違いである。たとえ一番良い部屋がふさがっていないとしても、私の部屋と食事の支度をするのにたっぶり一時間はかかり、その間私は、蚊に悩まされて時間を有効に過ごすことができない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.202 より引用)

現代であれば、ちゃんと事前に予約を入れておけばこんな目には遭わないのですが、当時の労苦が偲ばれますね。疲れ切っているのに蚊に悩まされて仏頂面のイザベラの姿が目に浮かぶようです。

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