2020年5月17日日曜日

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アイヌ語地名の傾向と対策 (729) 「照岸・糸泊」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

照岸(てるきし)

terke-us-i
跳び越える・いつもする・ところ

(典拠あり、類型あり)

盃から国道 229 号で南東に向かい、「兜岬」を「兜トンネル」で抜けてから 0.5 km ほど過ぎたあたり(妙に細かいな)の地名です。兜岬から南は比較的なだらかな斜面がそのまま海に続いていますが、海岸部には波に洗われた岩盤が広がっています。

「東西蝦夷山川地理取調図」には照岸らしき地名を見つけることができませんでした。ただ、「西蝦夷日誌」にそれらしき記録がありました。

扨下道を行、エノコワシリ(人家)、大岩大難所、(三町半)テレケ(サキ)、テレケウシ泊(人家)、幷て(四丁)シユチエ泊、(一町)ホネナイ、(幷て)カマサウタ(灣)、立待(岬)、此岬え秋比岩内土人來り居て鮭の寄るを待、一尾にても通るや、岩内にて網を卸す也。其故號く。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.117 より引用)

前後関係を把握すべく、ちょいと長めに引用してみました。「エノコワシリ」は照岸の南にある大きめの岩岬のことで、それに続く「テレケ(サキ)」そして「テレケウシ泊」が「照岸」になったと考えられます。

永田地名解にも次のように記されていました。

Tereke ushi  テレケ ウシ  飛ビ越エル處 一名メノコバシリ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.111 より引用)

明治時代には、どうやら「メノコバシリ」(エノコワシリ)と「テレケウシ」は同一視されていたようで、直前には次のようにも記されていました。

Menoko pashiri  メノコ パシリ  婦女走ル處 原名「テレケウシ」ナレドモ往時夷婦此處ニ死シタルコトアリシ故婦女怖レテ走ル所ナレバ此名アリ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.111 より引用)

「テレケウシ」は terke-us-i で「跳び越える・いつもする・ところ」と考えられます。なるほど、「テレケウシ」に若干のアレンジを加えて和訳したものが「メノコパシリ」だったのかもしれませんね。

昔は今と違って高台を通行するのではなく、海沿いを歩いて移動していたと考えられるのですが、このあたりの岩盤は大小のクラックが無数にあるので、それを都度飛び越えて歩いていた、ということでしょう。

余談ですが、大正時代に測図された陸軍図には「照」の字に「テリ」とルビが振られていました。「照岸」を「テリキシ」あるいは「テリケシ」と読んでいた可能性もありそうですね。

糸泊(いとどまり)

nitu-tomari
寄木・泊地

(典拠あり、類型あり)

照岸の南東に位置する一帯の地名です。「東西蝦夷山川地理取調図」には「モエトマリ」とありますが、「西蝦夷日誌」には「ニトマリ〔泊〕(本名モエトマリ、人家)」とあります。このあたりでは「東西蝦夷山川地理取調図」よりも「西蝦夷日誌」のほうが記録が詳しいという、謎の逆転現象が出ていますね。

「竹四郎廻浦日記」には次のように記されていました。

少し行て、
     ニトマリ 本名モヱトマリと云也。並てモヱトマリヘツと云川有。
二八小屋有。此処も少しの船間也。
(松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 上」北海道出版企画センター p.370 より引用)

現在「糸泊」と呼ばれているあたりに川があったかな……との疑問も出てくるのですが、諸々の情報を総合的に考えると、松浦武四郎の記録には大きな間違いは無いように思えます。地理院地図では川として描かれていないですが、谷らしき地形もあるので、それを「モヱトマリヘツ」と呼んだのかもしれません。

「ニトマリ」の意味する所ですが、永田地名解には次のように記されていました。

Nitu tomari  ニト゚ トマリ  寄木泊
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.111 より引用)

永田方正は nitu を「寄木」と解釈しますが、手元の辞書類には nitu という語彙が記載されていないことが引っかかっていました。ni-tu かな、と考えたこともありましたが、あるいは nit-o で「棒・多くある」とか、案外その辺かもしれないなぁと思ったりもします。

とりあえず、今日のところは nitu-tomari で「寄木・泊地」ということで。

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