2020年12月19日土曜日

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アイヌ語地名の傾向と対策 (790) 「暑寒別・ニタトコナイ沢川・留知暑寒沢川」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

暑寒別(しょかんべつ)

so-kan-pet
滝・上にある・川

(典拠あり、類型あり)

増毛町の真ん中あたり(上流部はやや西寄り)を流れる川の名前で、増毛町内の川で最も長いもの……だと思います。源流部を遡ると雨竜町との境界に「暑寒別岳」が聳えています。素直に考えると「暑寒別」は川の名前なのですが、「暑寒別岳」の知名度が高いことも考慮して、今回は「暑寒別」でまとめてしまいます。

明治時代の地形図には「暑寒澤」という地名が描かれています。これは 1900 年まで存在した「暑寒澤村」のことだと思われます。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「シヨカンベツ」という名前の川が描かれていました。また面白いことに「シヨカンヘツノホリ」という山も描かれていました。「暑寒別川を遡ったところにあるから暑寒別岳」という考え方が、既に松浦武四郎の時代から存在していたことになりますね。

「西蝦夷日誌」には次のように記されていました。

(九丁五十五間)シヨカンベツ〔暑寒別〕(川幅十餘間、橋有)、轉太石、急流。名義、瀧有川と言儀。此水源瀧の下まで行詰になり、號くと。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(下)」時事通信社 p.233-234 より引用)

また、永田地名解にも次のように記されていました。

Shō kan pet  シヨー カン ペッ  瀑川 川上ニ瀧アリ故ニ名ク○暑寒別(町)
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.391 より引用)

どうやら so-kan-pet で「滝・上にある・川」と考えて良さそうな感じですね。「滝のある川」だと so-us-pet で「滝・ついている・川」となる場合が多いですが、暑寒別の場合は「滝の上にある川」なので so-kan-pet なのだ、ということですね。

ここで「『滝の上にある』のは川じゃなくて山じゃないのか?」と言う疑問が出てきてしまいました。更科源蔵さんも「アイヌ語地名解」にて次のように記されていました。

おそらく暑寒別岳がソカウンペ(滝の上にあるもの)で、川はソウンペッであったのではないかと思う。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.137 より引用)

そうですよねぇ。確かにそう考えたくなるのですが、少なくとも「東西蝦夷山川地理取調図」には山の名前が「シヨカンヘツノホリ」と描かれていました。山名に「ヘツ」が含まれるということは、やはり「シヨカンベツ」という川名が先で、「シヨカンベツ」の水源部にある山が「シヨカンヘツノホリ」と呼ばれるようになった……と言うことでは無いでしょうか。

もちろん更科さんの説が成立する余地も十分あるので、どちらも断定はできないと思いますけどね。

ニタトコナイ沢川

nitat-ko(-an)-nay?
湿地・そこに(・ある)・川

(? = 典拠あり、類型未確認)

道道 546 号「暑寒別公園線」は暑寒別川沿いを南に向かい、途中で支流の「ポンショカンベツ川」沿いを通って「暑寒荘」まで通じています。「ニタトコナイ沢川」は「ポンショカンベツ川」の西隣を流れていて、ポンショカンベツ川ではなく直接「暑寒別川」に注いでいます。

明治時代の地形図には「ニタトコナイ」という名前の川が描かれていますが、「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしき川が見当たりません。また「西蝦夷日誌」や永田地名解にも記述が無いようです。そう、これはまさに「似たとこ無い沢」な訳で……(やめなさい)。

NHK 北海道本部・編の「北海道地名誌」には、次のように記されていました。

 ニタトコナイ暑寒別川 暑寒別川の右小支流。「ニタッ・エトㇰ・ナイ」は,湿地の奥の川の意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.375 より引用)

なるほど……。nitat-etok-nay で「湿地・奥・川」と考えたのですね。この川の流域に「湿地」があったのか否かは今ひとつ釈然としませんが、「ニタトコナイ」の解としてはありそうだな、と思わせます。

「ニタトコナイ」が見当たらないのは

改めて明治時代の地形図を見てみると、「シヨカンペッ」の上流に「ニタトコナイ」「クト゚シヨカンペッ」「ルーチシシヨカンペッ」が並んでいます。

現在では「クト゚シヨカンペッ」が「暑寒別川」の本流となっていますが、「東西蝦夷山川地理取調図」を信用するならば、現在の「ニタトコナイ沢川」が「クト゚シヨカンペッ」(「東西蝦夷──」では「クトシヨロカンベツ」と描かれている)だった可能性があるのではないか、と考えています。

どこから「ニタトコナイ暑寒別川」という名前が出てきたのかが謎なのですが、もしかしたら暑寒別岳の西側あたりを流れる小支流にそんな名前の川があって、本来は「クト゚シヨカンペッ」だった川の名前に間違えて転用されてしまったのではないか……と想像していたりします。

留知暑寒沢川(るちしょかんさわ──?)

{ru-chis}-{so-kan-pet}
{峠}・{暑寒別川}

(典拠あり、類型あり)

暑寒別川の上流部で西から合流する支流の名前です。この川の何が難しいって、本当にこの読み方で正しいのか、裏付けが取れなかったことで……。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ルウクシシヨカンヘツ」という名前の川が描かれています。また、明治時代の地形図には「ルーチシシヨカンペッ」という名前の川が描かれています。こちらは現在の「留知暑寒沢川」と同じ川であると見られます。

ここで問題となるのが、「東西蝦夷山川地理取調図」には「ユワヲイヲマシヨカンヘツ」という「暑寒別川の西支流」が描かれていて、また「ルウクシシヨカンヘツ」の源流が「シヨカンヘツノホリ」の近くを向いているように描かれているところです。留知暑寒沢川の源流部は暑寒別岳ではなく「浜益御殿」(山の名前です)のあたりなので、「東西蝦夷──」の「ルウクシシヨカンヘツ」は現在の「留知暑寒沢川」は別の川ではないか、との疑念が生まれてきます。

「東西蝦夷──」をよく見ると「ユワヲイヲマシヨカンヘツ」が「ウフイヌプリ」の東側が源流であるように描かれています(「ウフイヌプリ」は現在の「雄冬山」と考えられ、「浜益御殿」のやや北に位置します)。つまり、松浦武四郎が「ユワヲイヲマシヨカンヘツ」と記録した川が、明治時代の地形図では「ルーチシシヨカンペッ」に改められてしまったのではないか、という疑念です。

暑寒別川流域においては、明治時代の地形図は疑わしい点が多いのではないか……ということになりますね。もっとも「東西蝦夷山川地理取調図」も暑寒別川の西支流として「エンルンヲマナイ」という名前の有りもしない川を描いているので、完全に信が置ける訳でも無いのですが。

ということで、松浦武四郎が記録した「ルウクシシヨカンヘツ」ではなく、「ユワヲイヲマシヨカンヘツ」が何故か「ルーチシシヨカンペッ」に化けてしまった……と考えるしか無さそうな感じでしょうか。永田地名解には次のように記されていました。

Rūchishi so kan pet  ルーチシ ソ カン ペッ  嶺瀧川
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.393 より引用)

例によってびみょうな解ですが、{ru-chis}-{so-kan-pet} で「{峠}・{暑寒別川}」と読めそうですね。

元となった(?)「ルウクシシヨカンヘツ」は ru-kus-{so-kan-pet} で「道・通行する・{暑寒別川}」と読めそうです。「東西蝦夷──」を信じるならば、石狩市との境界にある「群別岳」の北側の鞍部がその峠道で、東に抜けて徳富川(新十津川町)の源流部に出ていたと考えられそうですね。

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