2020年12月27日日曜日

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アイヌ語地名の傾向と対策 (793) 「信砂・アイトシナイ川・仁奈良川」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

信砂(のぶしゃ)

nup-sam-pet
野・傍・川

(典拠あり、類型あり)

増毛町東部を流れる川の名前で、流域の地名でもあります。「信砂川」が海に注ぐ少し手前で西支流の「新信砂川」が合流していて、合流点のすぐ近くに JR 留萌線の「信砂駅」がありました(国鉄時代は仮乗降場だったため「北海道駅名の起源」には記載がありません)。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヌブシヤ」と言う名前の川として描かれていました。「西蝦夷日誌」にも「ヌブシヤ」と記録されています。

「竹四郎廻浦日記」には「ヌフシヤ川すじ」「ヌフシヤノホリ」と言った記録があります。丁巳日誌「天之穂日誌」にも次のように記されていました。

    ヌブシヤ
川有。巾十五六間、急流小石川にて、両岸柳多し。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.452-453 より引用)

「再航蝦夷日誌」の謎

一方、ここに来て俄然オリジナリティを発揮してきた感のある「再航蝦夷日誌」には、次のように記されていました。

幷て
    ノブシヤ
川有。石川。巾十五間。歩行渡り也。夷人小屋有る也。ノブセとなまるなり。
(松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 下巻」吉川弘文館 p.77 より引用)

「再航蝦夷日誌」は「朱文別(しゅもんべつ)」も「シユフンベツ」ではなく「シユモンベツ」と記していて、まるで現在の読みを知っていたかのような感があるのですが、ここでも他の記録が軒並み「ヌブシヤ」なのに対して「ノブシヤ」となっていますね。もしかして書籍化の際に手を加えた……というオチなんでしょうか。

「野傍の川」

永田地名解を見てみると、「ヌプシャ川筋」として支流群がまとめられていましたが、肝心の本流?については……

Nup sa pet  ヌㇷ゚ サ ペッ  野傍ノ川
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.392 より引用)

となっていました。まぁ「サ」も「シャ」も似たようなもの……というか、事実上同じものなのですが、「サ」を「傍ら」とするのは若干強引な感じがします。

山田秀三さんの「北海道の地名」には、次のように記されていました。

永田地名解は「ヌプサペッ。野傍の川」と書いた。今の形で書けば nup-sam-pet(野の・傍の・川)の意らしい(sam も sham も同音)。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.127 より引用)

はい。nup-sam-pet であれば「野・傍・川」と解釈できますね。

 この川は鉄道の鉄橋のすぐ上で二股になっていて,左(東)股の方が現在本流と扱われているが,松浦図や西蝦夷日誌ではルウクシヌプシヤ,即ち ru-kush-nupsha(道が・通っている・信砂川)と書かれていた。石狩へ越える通路のある方の信砂川の意らしい。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.127 より引用)

これもその通りですね。明治時代の地形図でも「ルークシュヌプシャペッ」と描かれていました。

「新信砂川」の謎

さて、ここからは殆ど余談なのですが……

 右(西)股の方は同日誌で「右の方シンヌプシヤ(本川)」と書かれ,明治30年図ではシイヌプシヤ川と書かれている処から見ると,シー・ヌプシャ(shi-nupsha ほんとうの・信砂川→信砂川本流)の意だったらしい。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.127 より引用)

現在は道道 94 号「増毛稲田線」沿いを流れる川が「信砂川」で、その支流として「新信砂川」が存在しますが、元々は「新信砂川」が si-nup-sam(-pet) だった、ということのようです。

ただ面白いことに、「東西蝦夷山川地理取調図」では「新信砂川」と思しき川が「シンヌブシヘツ」と描かれています。si- ではなく sino- だった……と考えられそうでしょうか。

いずれにせよ si- もしくは sino- で「主たる」という意味だと思われるのですが、「新信砂川」と「信砂川」を比べると、「信砂川」のほうが川の規模も大きく、野の傍らにある区間?も長いように思えるのですね。「新信砂川」は本当に「主たる信砂川」だったのか、少し疑問に思えてきます。

アイトシナイ川

ar-e-tanne-nay??
もう一方の・頭(水源)・長い・川

(?? = 典拠あるが疑わしい、類型未確認)

信砂川の東支流に「カヤドマリ川」という川があるのですが、「アイトシナイ川」は「カヤドマリ川」の北支流です。

山の中の「カヤドマリ」

「再航蝦夷日誌」や「竹四郎廻浦日記」には「カヤトマリ」という地名が記録されています。kaya-tomari で「帆・泊地」と考えられそうですが、これはどうやら海岸部の地名だったようで、「カヤドマリ川」とは位置が異なるようです。

何故「カヤドマリ川」が海から離れたところにあるのか……という話ですが、もしかしたら「東西蝦夷山川地理取調図」にそれらしき川が描かれていないこととも関係があるかもしれません。信砂川の東支流に名前未詳の川がある……となった際に、「信砂川とタントシナイ川の間にあるので『カヤドマリ川』にしよう」と考えた……というのは流石に雑すぎる想像でしょうか。

「アイトシナイ」と「アエトン子ナイ」

「アイトシナイ川」は、そんな「カヤドマリ川」の北支流です。明治時代の地形図には描かれておらず、また「東西蝦夷山川地理取調図」にもそれらしき川が描かれていません。

ただ、現在の「信砂川」であると考えられる「ルウクシヌフシヤ」には「アエトン子ナイ」という東支流が描かれていました。また「西蝦夷日誌」にも「アエトムネナイ」という東支流の存在が記録されています。

しかしながら「アイトシナイ川」が「アエトン子ナイ」だとすることには問題もあります。「東西蝦夷山川地理取調図」では「アエトン子ナイ」と「シンヌブシヘツ(新信砂川)」の間に信砂川の支流が 4 つあるように描かれているのですが、現在「カヤドマリ川」が信砂川と合流する地点と、「新信砂川」が信砂川と合流する地点の間には、そこまでの支流が存在する余地は無いと思われるのです。

二つの「アイトシナイ川」

また留萌市にも「アイトシナイ川」が存在するという問題もあります。全く同名の異なる川が近接して存在するケースは皆無ではないのですが、どちらかが誤って他の川の名前を名乗ってしまった可能性も考えておくべきかと思われます。そもそも「カヤドマリ川」自体の位置もおかしいので、「アイトシナイ川」の出自?も様々な可能性を疑ってかかる必要がありそうです。

「アエトン子ナイ」借用説

仮に「アイトシナイ川」が「アエトン子ナイ」から名前を借りたとするならば、……これまた意味が良くわからないのです。たとえば ar-e-tanne-nay だとすれば「もう一方の・頭(水源)・長い・川」となりそうなので、現在「チャチャ沢」と呼ばれている川の名前としてアリかもしれないなぁ……と考えたりもします。

明治時代の地形図は「東西蝦夷山川地理取調図」との整合性が今ひとつ乏しく、現在の川の名前は「東西蝦夷山川地理取調図」に描かれている川の名前を海側から順番に割り振っただけじゃないか、と疑っていたりします。

その結果として「アエトン子ナイ」は全く違う川の名前として割り当てられ、しかもお隣の留萌市にある「アイトシナイ川」と混同されてしまったのではないか……と言うのが、今の時点での想像です。

仁奈良川(になら──)

ninar??
川岸の平地

(?? = 典拠あるが疑わしい、類型未確認)

道道 94 号「増毛稲田線」で信砂川沿いを遡ると、「天竜橋」という名前の橋で信砂川を渡る場所があるのですが、「仁奈良川」は天竜橋のすぐ下流側で信砂川に合流する西支流です。

「東西蝦夷山川地理取調図」では、「アエトン子ナイ」と「シンヌブシヘツ」の間に「チコシケニカルンナイ」(東支流)、「ニセイハロマフ」(西支流)、「ニナラハケシヨマナイ」(西支流)、「ニナラハヲツ」(西支流)の 4 つの支流が存在するように描かれています。

また、明治時代の地形図では、現在「砂金沢川」と呼ばれる川の位置に「ニナラパオマナイ」と描かれていて、また現在「下御料川」と呼ばれる川の位置には「ポンニセイパルマㇷ゚」と描かれていました。

「仁奈良川」は「ニナラハケシヨマナイ」か「ニナラハヲツ」(ニナラハヲマ?)との関係性が考えられますが、前後関係も位置関係も全く合わないというのが正直なところです。ninar は「川岸の平地」なのですが、それ以上は不明ということで。

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