2016年10月30日日曜日

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北海道のアイヌ語地名 (387) 「富川・オコタン川・シノダイ岬」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

富川(とみかわ)

sar-putu
沙流川の・河口
(典拠あり、類型あり)
沙流川の河口近くに位置する日高町(旧・門別町)の地名で、日高線に同名の駅もあります。ということで久しぶりに「北海道駅名の起源」から。

  富 川(とみかわ)
所在地 (日高国) 沙流郡門別町
開 駅 大正 2 年 10 月 1 日(苫小牧軽便鉄道)
起 源 もと「佐瑠太(さるふと)」といい、アイヌ語の「サル・プト」(沙流川の川口) から出たものであるが、昭和 19 年 4 月 1 日字(あざ)名の「富川」に改めた。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.89 より引用)
ということで、元々の地名は「佐瑠太」で、sar-putu で「沙流川の・河口」ということでした。

ビタルバ

富川のあたりも河岸段丘状の地形で、沙流川沿いの平地が「佐瑠太」や「川向」(面白いことに、富川駅の所在する側が「川向」でした)と呼ばれていて、段丘の上は「ビタルバ」という名前があったようです。現在の「富川西」のあたりでしょうか。

「ビタルバ」は pitar-pa で「川岸の小石原・頭」だと考えられます。佐瑠太や川向のあたりは小石の多い原っぱで、その原っぱに突き出していた台地状の地形を形容するのにぴったりな名前に思えます。

オコタン川

o-kotan-o-sar
河口に・人家・ある・葭原
(典拠あり、類型あり)
富川東の集落を流れる沙流川の支流の名前です。ふつーに考えると「河口に村落のある川」なんですが……。戊午日誌「東部沙留志」には次のように記されていました。

扨川まゝ上ることまがりて凡北向に行けるに、凡七八丁にして
     ヲコタノサル
右のかた小川有。其名義は、元来サル村は此処に有りしによって号と。是サル村の根元によって号也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.641 より引用)
ふむふむ。o-kotan-o-sar だとすれば「河口に・人家・ある・葭原」となりそうな感じもしますが、松浦武四郎は sar を固有名詞と考えたようですね。

「佐瑠太」改め「富川」は、沙流川の北西岸に位置していますが、これまた元々は南東岸にあった……という話もあるそうで、この「ヲコタノサル」という地名がそれを裏付けている……とも言えそうな感じもしますね。

富仁家(とんにか)

さて、「佐瑠太」改め「富川」は和名だと考えられますが、現在の「富川東」の近くには「富仁家」と書いて「とんにか」と読ませる地名がありました。この「富仁家」が「富川」の直接のルーツであるとは言えないかもしれませんが、「富川」という地名を「創作」する上でのヒントになった可能性はありそうな感じもします。

戊午日誌「東部沙留志」には、次のようにありました。

行て右のかた川よりは十丁も引上りて
     トンニカ村
平地、荻と薄との原槲柏のみ也。依て号。トンニカはコムニカの訛り也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.640 より引用)
「トンニカはコムニカの訛り」というのは随分と大胆な推論のように思えますが、実は結構ハイレベルな勘違い?で、kom-nitunni もどっちも「柏」という意味だったのでした。従って、tunni-ka で「柏・かみ」と考えるのが自然かもしれません。

山田秀三さんの「北海道の地名」には、次のように記されていました。

なお左留日誌の終わりの句はトンニはコムニの誤りとしたが,実際は共に柏の木で,土地の平賀さだも媼(故)に尋ねたら,トゥンニは「大きい柏の木」だとのことであった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.360 より引用)
ふむふむ。大きさによって使い分けていたと言ったところだったのでしょうか。知里さんの「植物編」には「但し,穂別の日常語でわ下記の如く túnni を用いる」などとあり、このあたりでは tunni のほうが良く使われていた可能性もありそうです。

シノダイ岬

si-nup-tay
大きな・野原・林
(典拠あり、類型あり)
沙流川河口と門別川河口の間にある岬の名前です。東蝦夷日誌には次のように記されていました。

シノタイ(漁や有)名義、シノは至る、タイは山の事也。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.129 より引用)
なんとも謎な解ですが、実はこの解は松浦武四郎のオリジナルでは無いようで、古くは秦檍麻呂の「東蝦夷地名考」にも次のように記されていました。

シノは至而といへる語なり。タイは平原の丘なり。此地より東山奥に源廷尉の神を祭る地あり。蝦夷等木幣を奉りて尊崇せり。
(秦檍麻呂「東蝦夷地名考」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.24 より引用)
tay は「林」あたりの意味ですが、sino に「至る」と言った意味があったかと言うと……手元の辞書類を見た限りでは、そのような用例は見当たりません。

「シノタイ」という地名は「東蝦夷日誌」や「東西蝦夷山川地理取調図」に出てくるのですが、それらをよーく見ると、隣に「モノタイ」という地名があることに気がつきます。simo は「主」と「副」、あるいは「大」と「小」と言った関係にあるので、「シノタイ」も sinoi-tay ではなく si-no-tay と考えたほうが自然です。

そう考えていたところ、永田地名解に次のような記述を見つけました。

Mo nup tai   モ ヌㇷ゚ タイ   小原野
Shi nup tai  シー ヌㇷ゚ タイ  大ナル野林 「シンヌプタイ」トモ云フ同義
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.225 より引用)
なんとなく「シノタイ」「モノタイ」に合う形を探してきたように見えなくも無いのですが(汗)、これだと意味が通りますね。si-nup-tay で「大きな・野原・林」と考えられそうです。

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