2018年10月13日土曜日

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アイヌ語地名の傾向と対策 (571) 「大曲・モヨロ・ピットカリ川」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

大曲(おおまがり)

tanne-nutap
長い・川の湾曲内の土地


網走刑務所の近くの地名で、以前に「ジャッカ・ドフニ」というウィルタ文化資料館のあったところでもあります。その名の通り網走川が見事な S 字カーブを描いているところで、そこから来た地名だと考えられます。

知里さんの「──小辞典」には、nutap の項で次のように記されていました。

アバジリ川はアバシリ湖のすこし手前で大きく彎曲して流れている。そこの所を今オーマガリ(大曲)と呼んでいるが,原名は tanne-nutap〔たンネヌタㇷ゚〕(長いヌタㇷ゚) で,nuta- はそのような彎曲内の土地を云うのである。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.70 より引用)

ふむふむ。網走市大曲のあたりはアイヌ語でも「大曲」だった、ということになりそうですね。tanne-nutap で「長い・川の湾曲内の土地」と解釈できそうです。

また、同じく知里さんの「網走郡内アイヌ語地名解」には、より詳しく記されていました。

(109)タンネヌタㇷ゚(Tanne-nutap)タンネ(長い),ヌタプ(川の弯曲部内の土地)。大曲の原名。インカルシ・ヌタピ(インカルシの曲り)とも。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『網走郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.286 より引用)

「インカルシ」というのは「遠軽」でもおなじみですが、inkar-us-i で「見張り・いつもする・もの(ところ)」ですね。大曲は川のそばの標高の低いところなので、あるいは天都山の一角あたりを「インカルシ」と呼んでいたのかもしれませんね。

モヨロ

moy-or-o
湾・内・にある


「モヨロ貝塚」は網走川の河口にほど近いところ(川の北側)にあります。古くは漢字で「最寄」と書かれていましたが、やはり「最寄り」と紛らわしかったのか、最近はカタカナ表記が一般的のようですね。

moy-or-o で「湾・内・にある」と考えられるのですが、どうやらこれは後ろの -kotan が略されたもののようです。永田地名解には次のように記されていました。

Moyoro kotan  モヨロ コタン  灣内村 最寄村ト稱ス
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.475 より引用)

ただ、「東西蝦夷山川地理取調図」には、モヨロ貝塚よりも少し北側に「モヨロ」とだけ記されていました。元来が川の名前では無さそうなので、あえて「コタン」をつけなくても「モヨロ」だけで通じていた、ということなのかもしれません。

山田秀三さんの「北海道の地名」には、次のように記されていました。

モヨロ
 モヨロ貝塚で有名になった地名。ただし貝塚は網走川口のすぐ西側であるが,元来のモヨロはそこから 2 キロ余北の,海岸がゆるく湾入している処で,明治30年図ではそこに最寄村と記す。今の明治から海岸町の辺である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.208 より引用)

これは「東西蝦夷山川地理取調図」の記載とも符合するのですが、明治の頃の地形図でもピットカリ川のあたりに「モヨロコタン」「最寄村」と記されていました。貝塚の名前として借用されてしまったような感じでしょうか。

ピットカリ川

pet-tukari
川・手前
pit-kar-i?
医師・とる・ところ


ということでシームレスに(どこがだ)ピットカリ川の話題です。モヨロ貝塚から 2 km ほど北側でオホーツク海に注いでいる川の名前です。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヘトカリ」と記されています。また戊午日誌「西部能登呂誌」には次のように記されています。

少し行や
     べトカリ
此処にも出稼番屋有。地名の訳は此浜の石長くして網の鎮石によろしきより号しとかや。へ卜とは網の鎮石の儀、カリとは取る儀なり。よって号しと云。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.119 より引用)

ふむふむ。pit-kar-i で「石・とる・ところ」と解釈したのですね。一方で、この解釈に永田方正は異を唱えたようで、「北海道蝦夷語地名解」では次のように記していました。

Pittukari  ピット゚カリ  川ノ此方 「ピット゚カリ」ハ「ペット゚カリ」ナリ「ペピ」相通ズ「ペポロ」ヲ「ピポロ」ト云フ如シ此邊「アイヌ」ノ發音ナリ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.475 より引用)

pet-tukari で「川・手前」と考えたようですね。確かに妥当な解釈に思えますし、知里さんも「網走郡内アイヌ語地名解」でこの解釈を追認しています。

tukari 系の地名では、長万部町の「静狩」が有名でしょうか。「静狩」は sir-tukari で「山の手前」と解釈できるのですが、実際に静狩のあたりで海沿いの平野が途切れています。

山田秀三さんはこの静狩と、下北半島の「尻労」(しつかり)の地形的な類似性を指摘していました。

そう言われてみると、網走市海岸町のあたりもやや似た趣があることに気づかされます。平野の終わりにあるのが「山」なのか「川」なのかが違うだけ、と言えそうです。

ただ、「川の手前の川」というのが若干自己言及的に思えてしまうのと、戊午日誌の pit-kar-i 説も決定的におかしいとは思えないこと、そして知里さんが戊午日誌を見ていなかった可能性もあることから、pit-kar-i も捨てがたいかなぁ、と思っています。

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