2018年1月1日月曜日

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「日本奥地紀行」を読む (77) 津川(阿賀町)~新潟(新潟市) (1878/7/3)

 

引き続き、1878/7/4 付けの「第十五信」(初版では「第十八信」)を見ていきます。イザベラは津川から新潟まで、阿賀野川を船で下っていました。



河上の生活

阿賀野川は、左右に迫る山の間を縫うように流れていましたが、五泉のあたりからは新潟平野の中を流れることになります。

うっとりするような景色を眺めながら、二一マイルの津川下りを終わると、それからのコースは、ゆるやかな流れとなる。満々と水をたたえた大河となって、森の多い、かなり平坦な平野の中を驚くべきほど曲折して流れる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.185 より引用)

現在では米どころとして知られる新潟平野ですが、イザベラには「森の多い平野」と映ったのですね。川岸に林でも多かったのでしょうか。

平野部ならではの緩やかな流れは「生活河川」でもありました。現在の「信越本線」の前身である「北越鉄道」が東三条から沼垂まで開通するのが 1897 年のことですから、まだ 20 年近く前の話になります。

河上の生活は美しい眺めである。小舟が多く往来し、野菜を積んだものもあれば、小麦を積んだものもある。学校帰りの少年少女たちを乗せた舟もある。すぼんだ帆をかけた平底船が、一度に十二隻も一隊となって、深い川をゆっくりと進む。浅いところは、船頭たちが、ふざけたり大声でわめきながら丘から綱で引いていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.185 より引用)

イザベラの丁寧な描写のおかげで、当時の風景がまるで目に浮かぶようです。

やがて幅広く深い川の風景に変わり、沖積土に特有な植物性の香りがあたりに漂っている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.185 より引用)

「沖積土に特有な植物性の香り」って凄い表現だなぁ……と思いましたが、原文にも a peculiar alluvial smell from the quantity of vegetable matter held in suspension とあります。ちなみに時岡敬子さんの訳では次のようになっていました。

水に溶けずに堆積した大量の植物性物質が独特のにおいを放っていました。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.244 より引用)

原文にある特徴的な alluvial(沖積)という語が省かれてしまっているような気もしますが、全体的には時岡さんの訳のほうがより正確に見えますね。和訳って難しいですよね……。

イザベラの川下りはさらに続きます。その中でちょっと気になる記述を見つけました。

絞首台のような建造物が、絶えず現われて見える。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.186 より引用)

この「絞首台のような建造物」は、一体何を指していたのでしょう。ぱっと思いつくのが「火の見櫓」に相当する建物ですが……。

回転する竹竿の一端に手桶が、反対の端に石がついている。この地方の農家では水の供給を川に依存していることが分かる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.186 より引用)

これは……「釣瓶竿」と呼ばれるもののことを指していたのでしょうか。井戸の水を汲み上げるために用いていた訳では無いでしょうから、厳密には「釣瓶竿」とは異なるのでしょうけれど、原理は似たようなものだったのでは無いでしょうか。

鶏の鳴く音、人間の声、いろんな仕事をしている物音が、深い緑の岸辺から私たちの船の方に響いてくる。川岸の方には住民が多いのだということが、見なくとも分かるのである。この暑くて静かな午後には、船頭と私のほかはだれも眼を開けてはいない。心地よく眠気をさそう船旅であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.186 より引用)

阿賀野川の急流を滑るように下りてきた船も、平野部に入ってからは速度も落ちてのんびりとした舟行になっていたのでしょうね。イザベラは「船頭と私のほかはだれも眼を開けてはいない」と記しながらも、その情景描写が視覚に頼らないものになっているのが面白いです。旅は五感すべてで味わってこそ、ということなのかもしれませんね。

葡萄園

イザベラの意外な発見は続きます。船からブドウ畑が見えると言うのですが……。

船がゆっくり進むにつれて、時折、葡萄畑が眼に入った。葡萄の蔓は水平の棚、あるいは竹の柵に這わせてある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.186 より引用)

えっ、新潟でブドウって栽培できるの……と思ってしまったのですが、Wikipedia によると旧・白根市(現・新潟市南区)や聖籠町などが主な産地なのだとか。見事にどちらも阿賀野川流域では無いですが、阿賀野川の近くにもぶどう園があったということなのでしょうね。

大麦を乾かす

「河上の生活」とくらべて「葡萄園」のなんと短いことか……と思ったのですが、「大麦を乾かす」に至っては以下の一文のみのような気がします。

枠組がいっぱいおおわれるまでは、その上に大麦を小さく束ねたものがかけて乾されていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.186 より引用)

この「大麦を乾かす」は、ちゃんと目次に Drying Barley とあるのですが、どういう基準で選択しているのでしょうね……?

夏の静けさ

夏の午後に船に揺られて、眠気を覚えない筈もありません。「森も豊富な草木もすっかり消えてしまった」とありますが、森林やぶどう園などがあったのは比較的上流側だったのでしょうか。

森はますます多くなり、人々はますます夢うつつとなる。やがて、森も豊富な草木もすっかり消えてしまった。川は広く開けて、小石や砂の土手と、低い平野の中を流れる。三時には新潟の郊外に来ていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.186 より引用)

イザベラは、阿賀野川を下っていた筈ですが、いつの間にか信濃川の河口にある「新潟の郊外」にたどり着いたことになっています。あれっ……と思ったのですが、地図を良く見てみると阿賀野川と信濃川の間に「通船川」という川があることに気づきました。

「なるほど、両河川の間に運河を通したのか」と思ったのですが、実はこの川、かつての阿賀野川だったのだそうです(!)。イザベラが旅した時には既に阿賀野川は日本海に直接流出する形になっていたようですが、舟運のために流路を残していたということなんでしょうね。

新潟の郊外

イザベラは、新潟の人口を「五万人」と記録しています。現代の感覚ではなんということの無い規模ですが、日光から津川までに訪れた町と比べるとその規模の違いは歴然としていたことでしょう。実際、イザベラは次のように書き記しています。

町の低い家屋は、屋根に石を並べており、広々とした砂地の上に並んでいた。その向こうには砂丘地帯があって、樅の木の林が立っていた。縁側を多く出している料亭が川岸に立ちならび、宴会の人たちが芸者をあげて酒宴に興じていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.186 より引用)

「料亭が川岸に立ちならび芸者をあげて酒宴に興じ」というのは、これまた随分と華やかな感じするのですが……

しかし全体的に見て、川に沿った街路はみすぼらしく、うらぶれている。この西日本の大都会の陸地よりの方も、たしかに人を失望させるものがある。これが条約による開港場であるとは信じがたいほどであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.186-187 より引用)

ふーむ、なるほど。新潟は数少ない「国際港」の一つだったのですね。イザベラは横浜あたりを比較の対象にしていたのかもしれません。また「西日本の大都会」という表現が唐突に出てきますが、これは原文にも the great city of western Japan とあるので誤訳ではありません。現代の日本では、新潟のことを「西日本」と捉えることはありませんが、当時はそういう認識も可能だったのでしょうか。

イザベラが「国際港・新潟」を「みすぼらしく、うらぶれている」と評した理由について、次のように記しています。

というのは、海も見えず、領事館の旗も翻っていなかったからである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.186-187 より引用)

教会伝道本部

新潟に上陸したイザベラが向かったのは「教会伝道本部」でした。イザベラは牧師の娘であり、自身も宗教人としての側面を有していたことを考えると、これは当然の選択だったのかもしれません(ただ、イザベラはもしかしたら教会を上手く利用しようとしていた節もあるのかな、と思ったりも……)。

私たちは運河の中を棹で船を進めていった。町の数多くの運河は、産物や製品を運搬する通路となっていて、その何百という荷船の間を通って、町の真ん中に上陸した。なんども人にたずねた結果、ようやく教会伝道本部(チャーチ・ミッション・ハウス)に着くことができた。ここは官庁の建物に近く、木造の建物で、縁側もなく、木蔭もなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.187 より引用)

イザベラは、その建物を「縁側もなく木蔭もない」とした上で、「不便なほど小さかった」と評しています。しかし……

しかしドアや壁はとてもぜいたくにできており、いつまでもがやがやとうるさくて不作法な日本の家屋の中に暮らしてきた者にとって、洗練された西洋の家屋で暮らすことが、どんなに快いものであるか、あなたにはとても想像できないことであろう。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.187 より引用)

柱とふすましか無い(言い過ぎかな?)日本家屋と比べると、がっしりした構造の西洋建築は、イザベラにも「狭いながらも楽しい我が家」と思わせたことでしょうね。日光を出て十日ほど、イザベラはずっと「アウェー」状態だったでしょうから、新潟で久しぶりに「ホーム」に帰ってきたような気がしたのでは無いでしょうか。

日光から新潟までの旅程(鬼怒川ルート)

「日光から新潟までの旅程」として、地名、戸数、里・町が記されていました。このあたりはルートガイド的な位置づけでしょうか。地名だけを順に並べると以下のとおりです。

東京 Tokyo
日光 Nikkō
小百 Kohiaku
小佐越 Kisagoi
藤原 Fujihara
高原 Takahara
五十里 Ikari
中三依 Nakamiyo
横川 Yokokawa
糸沢 Itosawa
川島 Kayashima
田島 Tajima
豊成 Toyonari
栄富 Atomi
大内 Ouchi
市川 Ichikawa
高田 Takata
坂下 Bange
片門 Katakado
野沢 Nosawa
野尻 Nojiri
車峠 Kurumatogé
ホザワ(宝坂?) Hozawa
トリゲ(鳥井?) Torige
栄山 Sakaiyama
津川 Tsugawa
新潟 Niitaga

なお、イザベラの記録によると、この間の距離は 101 里 6 町で約 247 マイルとのこと。247 マイルは約 397.5 km ですが、Google Map で近そうなルートをだしてみたところ、約 381 km となりました。もちろん偶然かもしれませんが、これって結構な精度ですよね。


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