2020年1月1日水曜日

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「日本奥地紀行」を読む (97) 市野々(小国町)~手ノ子(飯豊町) (1878/7/13)

 

新年あけましておめでとうございます。イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在しますが、今日からは「第二十三信」を見ていきます(普及版では「第十八信」に当たります)。



美しい牝牛

イザベラは、牛を手に入れるために市野々(小国町)で丸一日待たされることになりましたが、無事牝牛を確保することに成功したようです。イザベラは今日も「馬上の人」ならぬ「牛上の人」となります。

 きびしい山の旅を一日して、別な地方にやってきた。私たちは晴れた朝早く、市野野を出発した。荷物運搬用の三頭の牛の中の一頭に私が乗ったが、子牛を連れたこの三頭の牝牛はたいへん美しい牛で、小さな鼻と短い角、まっすぐな背骨と深々とした胴体をしていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.211 より引用)

イザベラは牛に揺られることがすっきり気に入ったのか、牝牛のこともベタ褒めなのが微笑ましいですね。

外国の風習に対する日本人の批評

さて、牛と言えば米沢牛……もそうですが、搾りたての牛乳も牛の齎す大きな恵みのひとつです。ところが、地元民の反応は意外なものでした。

私は新鮮な牛乳を手に入れることができると思ったが、この地方の人々にとって、子牛が母牛から乳をしぼること以外は何でも聞き慣れぬことであったから、私の言葉を聞いて、みんな笑った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.211 より引用)

イザベラは、自分の言葉がなぜ笑いを誘ったのか伊藤少年に確かめたところ、「彼らはそんなことはとてもいやらしいことだと思っている」とのこと。牛乳のような「強い臭いのするもの」をお茶に入れるというのは論外、という反応だったようです。確かに緑茶に牛乳を入れることはありませんからね。

ただ、日本人が牛乳を飲む(飲まされる?)ようになってから体格が向上したのも事実だと思うんですよね。

牛は藁沓をはき、鼻の軟骨に紐を通してある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.211 より引用)

鼻に紐を通すのは昔からの知恵だったんですね。藁沓を履いた牛、というのは今ではあまり見かけないような気もします。荷役につく牛自体がいなくなった、ということかもしれませんね。昔は市電の車両を牛で引っ張る、みたいなこともあったと記憶していますが……(有名な写真がありましたよね)。

この日は晴れだったので、米や酒の輸送が多く見られた。荷物をのせた何百頭もの牛を見たが、いずれも同じ美しい種類の牛で、四頭ずつ隊をなしていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.211 より引用)

「何百頭もの牛」というのは驚きです。昔は「馬車鉄道」という馬力で動く鉄道がありましたが、その前段階として「牛キャラバン」もあったのでしょうか。四頭ワンセットというのも面白いですね。牛の面倒を見る上で適正な数だったのでしょうか。

楽しい休憩

イザベラ一行は、市野々から東の「桜峠」を越えたようです。この「桜峠」は県道 15 号「玉川沼沢線」として今も現役です。

私たちは桜峠を越えた。そこから眺める景色は美しい。白子沢(シラカサワ)という山の中の村で馬を手に入れ、さらに多くの峠を越えて、午後に手ノ子(テノコ)という村に着いた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.212 より引用)

「桜峠」を越えた先は「桜」という集落があり、桜川が流れています(わかりやすいね)。桜川沿いに下って東北東に進んだところが「白子沢」です。なおこのあたりの桜側は東北東に向かって流れていますが、最終的には西北西に向かって日本海に注ぐことになります。アイヌ語風に言えば horka-nay ですね。

イザベラは白子沢(小国町)で馬に乗り換え、その後は国道 113 号沿いのルート(JR 米坂線沿い)で東に向かいます。海抜 500 m 近くある「宇津峠」で米沢盆地に入りますが、イザベラは「さらに多くの峠を越えて」という随分とあっさりした文で済ませてしまっています。

イザベラ一行は、手ノ子(飯豊町)というところにやってきました。ここは飯豊山(いいで──)から相当離れたところなのに「飯豊町」なんて町名で、市町村合併ェ……と思ったのですが、随分昔から飯豊町だったみたいです(すいません)。

「手ノ子」は、後に国鉄米坂線の駅もできるところで、「豊川村」の村役場もあったようです。イザベラは代わりの馬の手配が終わるまで、のんびりと縁側に腰掛けて舞っていました。

そこではいつものように、私は駅舎の縁側に腰を下ろし、一頭の馬が手に入るまで待っていた。それは大きな店であったが、ヨーロッパ製の品物は一つもなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.212 より引用)

ヨーロッパ製の品物が普通に店頭に並ぶ店というのは、このあたりに限らずレアだったのではないかと……。

黒豆はたいへんおいしい。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.212 より引用)

さらっと重大な情報が記されていました。

私たちはこの地方のことを話しあった。駅逓係は私に、英語の文字で彼の名を書いてくれないかと頼み、私自身の名前を一冊の帳面の中に書いてくれ、と言う。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.212 より引用)

まるで「イザベラ・バード先生サイン会」の様相を呈してきました。「異人さん」の実物を目にするチャンスは滅多に無かったでしょうから、イザベラは一躍「時の人」になってしまったようです。

新たなる親切

イザベラは、おそらく「外国人だから」という理由だけでちやほやされたと思われますが、決して悪い気はしなかったのでしょうね。

家の女たちは、私が暑くて困っているのを見て、うやうやしく団扇をもってきて、まる一時間も私をあおいでくれた。料金をたずねると、少しもいらない、と言い、どうしても受けとらなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.212 より引用)

まるで女王様ばりに歓迎されていたようで、まぁ当然と言えば当然なのかもしれません。

彼らは今まで外国人を見たこともなく、少しでも取るようなことがあったら恥ずべきことだ、と言った。私の「尊名」を帳面に記してもらったのだから、と言う。そればかりではない、彼らはお菓子を一包み包んでよこし、その男は彼の名を扇子に書いて、どうぞ受けとってくれ、と言ってきかなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.212 より引用)

なんというか、蛭子さんのバス旅(ローカル路線バス乗り継ぎの旅)ってあったじゃないですか。あれとノリがかぶるんですよね。日本人が「有名人には何故か優しい」のは昔からだったんだなぁ……と再確認させられます。

それにしても、イザベラは手ノ子で受けた厚遇が殊のほか印象的だったようで、次のように心境を書き綴っていました。

私は、日本を思い出す限り彼らのことを忘れることはないだろう、と心から彼らに告げて、ここを出発したが、彼らの親切には心をひどく打たれるものがあった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.213 より引用)

一期一会の旅人さんに親切にするという文化は悪いものじゃないと思うので、これからも守っていきたいものですね。

米沢平野

前述の通り、イザベラは「宇津峠」を越えて米沢盆地に入りました。

 数多くの石畳を登ったり下ったりして高い宇津峠を越えたが、これが交通をふさいでいる一大山系の数多くの峠の最後のものであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.213 より引用)

新潟から米沢に向かう場合、確かに「宇津峠」が最後の峠と言えそうですね(実際にはこの後すぐに「諏訪峠」も越えていますが)。

米沢平野(置賜盆地)は、長さ約三〇マイル、一〇ないし一八マイルの幅があり、日本の花園の一つである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.213 より引用)

「米沢平野」という表現にはちょっと違和感があったのですが、やはり現在は「米沢盆地」と呼ばれるケースが多いようですね。「日本の花園の一つである」と言われるとラグビー場が多いのかと思ったりもしますが(思いません)、原文では one of the gardens of Japan でした。時岡敬子さんは「日本の庭園のひとつです」と訳していましたが、これは悩ましいですね……。

木立ちも多く、灌漑がよくなされ、豊かな町や村が多い。壮大な山々が取り囲んでいるが、山々は森林地帯ばかりではない。南端には七月半ばにも白雪をいただく山脈が走っている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.213 より引用)

南端の山脈は「飯豊山」のことかと思ったのですが、良く考えたら主語は「米沢盆地」なので違いましたね(飯豊山は小国町の南端です)。米沢盆地の南端の山脈と言えば……えーと……裏磐梯、でいいんでしたっけ。

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