2019年11月23日土曜日

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「日本奥地紀行」を読む (96) 市野々(小国町) (1878/7/12)

 

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在しますが、今日は引き続き、「普及版」をベースに 1878/7/12 付けの「第十七信」(初版では「第二十二信」)を読み進めます。

道を知らない村人

イザベラ一行は、小国町黒沢(JR 米坂線の羽前松岡駅の近く)から「黒沢峠」を越えて「市野々」というところにやってきました。この「市野々」集落ですが、残念ながら現在はダム湖の下に沈んでいます。

ちなみに、小国町の中心部から市野々に向かう場合、現在は大滝川沿いの県道 8 号「川西小国線」を通ると良さそうです(もっとも市野々の集落は水没していますが)。県道 8 号は「子持峠」を「子持トンネル」で越えているのですが、改めて地図を見てみると、イザベラが通った「黒沢峠」のほうが距離は短そうです。

イザベラの辿ったルートを改めて検証してみると、日光から会津若松の近くまで北上しておきながら、その後 JR 磐越西線に沿ったルートを西に向かい、新潟から改めて JR 米坂線沿いを東に向かうという、現在の交通網に置き換えるとなかなか理解に苦しむルートを通っています。

ただ、この謎なルートも「必ず新潟に立ち寄りたかった」と考えると、それなりに妥当性が出てきます。今となっては信じがたい話でもありますが、JR 磐越西線のルートは東京と新潟を結ぶ幹線ルートとして考えられていた時期もあったのです。

そしてイザベラが JR 米坂線沿いを東に向かったのは、次の「立寄地」を「山形」にしていたから、ということがここで明らかになります。

ブランドン氏のすぐれた地図にもこの地域は記していない。そこで有名な山形市に目標を置き、そこへ至る路程を考えて進むことにした。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.208 より引用)
どうやらイザベラの手持ちの地図には新潟・山形県境あたりの情報がなかったようで、イザベラは不足していた情報を聞き込みで補おうとします。しかし……

手に入る限りの日本の地図を調べ、宿の主人や、駅逓係にたずねたり、だれでも通りすがりの旅人にきいたりして、晩の大半を過ごす。しかしこの地方の人々は数里先のことは何も知らない。駅逓係も、次の宿駅の先のことはほとんど説明できない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.208-209 より引用)
実は地元の人間も地理を良くわかっていなかったという驚きの事実が判明します。

私が、人のよく通らぬ道筋を進みたいのだ、と言ってたずねると、その返事はきまって、「それはひどい山道だ」とか、「ひどい川をたくさん渡らなければならない」とか、「泊まるところは百姓家しかない」と言うのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.209 より引用)
……あれ? これは必ずしも間違っていないというか、極めて正確な情報のような気も……(汗)。

元気づけられるような言葉は少しも聞かれないが、私は出かける。私の現在の健康状態では、旅の困難を望むものではないが、むろん私は旅を続けるつもりだ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.209 より引用)
イザベラの「決意表明」ふたたび、ということですね。もっとも、文章からはそれほど気負いが感じられるものではありません。淡々と、さもそれが始めから決まっていたかのような書きっぷりです。

重い荷物

イザベラは、このあたりの物流事情について次のように記しています。

ここでは馬をほとんど飼っていない。商品の大半は、牛や人夫が運んでくる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.209 より引用)
「馬がいない」というのは新潟側と似たようなものですが、代わりに十分な数の牛がいるわけでもなく、結果的に人夫が牛馬の代わりを務めていたとのこと。

男と同様に女も重い荷物を運ぶ。荷物を運ぶ人夫は、一人で約五〇ポンド運ぶ。しかしここでは、山形から自分の荷物を運んでくる商人たちは、実際に九〇ポンドから一四〇ポンド、あるいはそれ以上も運んでくる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.209 より引用)
「ポンド」という重さの単位はボウリング場でおなじみですね。1 ポンドが約 0.45 kg ですから、50 ポンドは約 22.68 kg ということになります。90 ポンドで約 40.82 kg、140 ポンドは約 63.50 kg だとのこと。

この連中が、かわいそうに山の峠道を大弱りの格好で喘ぎながら登ってくるのを見ると、気持ちが悪くなるほどである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.209 より引用)
人ひとり(あるいはそれ以上)を担いでくるようなものですから、これは……キツいですよね。当時は今よりもはるかに栄養状態は良くないでしょうし、もちろんリポ D などもある筈がありませんから、もはや「信じられない」領域と言ってもいいかもしれません。

乞食がいない

イザベラは「黒沢峠」で見かけた商人のことを、次のように書き記していました。

昨夜、五人の商人たちが、峠の頂で腰を下ろしていたが、息づかいは荒かった。その眼はとび出しそうであった。身体がやせているので、震えている筋肉がまる見えで痛々しかった。虫に喰われても追い払うことができず、その傷口から血がしたたり落ち、裸の身体一面に、文字通り流れていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.209 より引用)
明治時代の日本の平均寿命は今よりもずっと短かった筈ですが、中には少なからず「過労死」に相当するものがあったのでしょうね。イザベラの表現を素直に受け止めるなら、まるで「地獄絵図」のような光景が広がっていたようにも思えるのです。

イザベラはここでも、ある「発見」をします。

私はこのふしぎな地方で、一人も乞食に出会ったことはない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.210 より引用)
これは人々の勤勉さを示している……と捉えることも可能ですが、むしろ「乞食」を食べさせるだけの余裕が社会に存在しない……と考えるべきでしょうか。イザベラは淡々と次の一文を記していました。

女の人たちは七〇ポンドを担いでいた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.210 より引用)
70 ポンドは約 31.75 kg ですから、小柄な女性だったら自分の全体重に近い荷物を担いでいたことになりますね。

もちろん、身体をほとんど二つに折って、非常に苦しげな格好をして歩くのだか
ら、しばしば立ち止まって背をのばす必要がある。もし丁度都合のよい高さの土手が見当たらないときには、このために携えているL字形の上端をつけた短くて丈夫な柱の上に自分の荷物の底をのせるのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.210 より引用)
「L 字形の上端をつけた短くて丈夫な柱」というのは、もしかして「杖」のようなもの、でしょうか。そもそも前かがみになって歩く時点で杖がないと厳しいでしょうから、常に杖を携帯していたとしても不思議はありません。

ものすごく大きな荷物を運ぶ姿は、この地方の特色となっている。残念ながらその特色には、さらに、肌を刺す赤い蟻と、人足たちを悩ます小さな虻がある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.210 より引用)
「小さな虻」はともかく、「肌を刺す赤い蟻」というのはなんとも気味が悪いですね……。

のろのろした旅行

イザベラは、関川村の「沼」集落から「大里峠」と「朴ノ木峠」そして「黒沢峠」を越えて小国町の「市野々」までやってきました。

昨日の旅は十二時間で一八マイルであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.210 より引用)
18 マイルは約 28.97 km ですから……えーと……なんとなくですが、大体合ってそうな感じもしますね。イザベラはどのようにして行程の距離を把握していたのでしょう。ちょっと……いや、かなり興味が湧いてきます(どのような方法で距離を測っていたのか、ちょっと想像もつかないもので)。

この市野野は素敵で勤勉な部落である。他の部落と同じく、蚕を飼うのに精を出しており、どこへ行っても純白と硫黄色の繭が日ざしのよい蓆の上に乾してある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.210 より引用)
全体的に救いのない話が続いていただけに、市野々集落の良い印象が記されているだけで、わずかでも救われた感がありますね。

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