2020年1月18日土曜日

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アイヌ語地名の傾向と対策 (695) 「プトカマベツ川・耶似様内岳・白地畝山」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

プトカマベツ川

putu-kama-pet
河口・平岩・川

(典拠あり、類型あり)

幌加内町の北部に、日本最大の人造湖である「朱鞠内湖」があります。朱鞠内湖は厳密には東西二つに別れていて、大きいほうが東側の「雨竜第一堰提」(および「雨竜土堰提」)によって形成されたものです。

「プトカマベツ川」は、朱鞠内湖の北端部、かつての国鉄深名線・白樺駅と北母子里駅の間あたりで朱鞠内湖に注ぐ川の名前です。……現代の地図からはそう理解するしか無いのですが、大正時代に測量された陸軍図を見ると、現在の「雨竜第一ダム」のあたりまで「プトカマベツ川」だったことがわかります。

雨竜第一ダムのすぐ西側で、ウツナイ川と朱鞠内川が合流しています。事実上、三河川がまとめて合流するところで、大正時代の地図には「朱鞠内(三ッ股)」と記されています。つまり、現在の「朱鞠内湖」(西側の宇津内湖を除く)は雨竜川ではなくプトカマベツ川のダム湖だった……と言えそうです。

現在の法律では、朱鞠内湖は「雨竜川」なのか、それとも「プトカマベツ川」なのか、どっちなのでしょう。

「再篙石狩日誌」には記載がありませんでしたが、「東西蝦夷山川地理取調図」には朱鞠内湖の東支流に相当しそうな川として描かれていました。一方、明治時代の「北海道地形図」には、美深町との境から現在の「雨竜第一ダム」までの川として描かれています。余談ですが、プトカマベツ川は明治時代に認識されていたよりも水源が奥深く、遠別町と中川町の境界に近いところです。

現在は朱鞠内湖に注ぐ支流の一つという扱いですが、元々は松浦武四郎が「シウリウ」(雨竜川の本流)と記録した川でもあるからか、永田地名解にもちゃんと記載がありました。

Putu kama pet  プㇳ゜ カマ ペッ  川尻ニ底磐アル川
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.60 より引用)

putu-kama-pet で「河口・平岩・川」と読めそうです。厳密に読めば「ある」という語彙は putu-kama-pet には含まれていないため、putu-kama(-us)-pet あたりだった可能性もありそうです。

山田秀三さんの「北海道の地名」にも、永田説が肯定的に取り上げられていました。

プトカマベツ川
 明治31年5万分図では朱鞠内の三股の処でウッナイとプトカマベツ(雨竜川本流)が合流している。今の図と照合すれば,その川の下半分が朱鞠内湖の中央部を南流していたのであった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.88 より引用)

ああ、やはり「プトカマベツ」が「雨竜川本流」との認識ですね。

松浦図ではその合流点から上の初めての小支流にフトカマヘツとあって気にかかるが,この図もこんな山中はだいぶ危いので,一応は明治31年の測量図の方を採りたい。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.88 より引用)

「この図もこんな山中はだいぶ危い」というのは名言ですね(笑)。松浦武四郎の紀行記録をもとにまとめた図は秀逸な出来ですが、土地のアイヌからの聞き書きをベースに想像図として描いた部分はやはり信頼性が劣るケースも散見されます(実際に紀行した場所でも左右を間違えていたり、川筋ごと場所を取り違えたり、というケースもあるので、盲信は禁物です)。

 語義はプトゥ・カマ・ペッ「putu-kama-pet その川尻に・平たい岩(がある)・川」であったろう。古老に聞くと合流点の上の辺に岩磐があったとのことであった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.88 より引用)

今や「プトカマベツ」の putu(河口)には「雨竜第一ダム」という巨大な kama(平磐)があるわけで、そう考えるとちょっと面白いですね。

雨竜第一ダムの場所は本当にダムの適地としか言いようのないところで、堰堤のサイズは日本一ではないのにダム湖の面積は日本一という点も、「ダムの適地」だったことを裏付けていますね。

逆の例が今金の「美利河ダム」でしょうか。

耶似様内岳(やにさまない──)

ya-nisey-oma-nay???
陸・崖・そこに入る・川

(??? = 典拠なし、類型未確認)

幌加内町朱鞠内の集落の東側に聳える標高 448.2 m の山の名前です。まずはこの山名が本当にアイヌ語に由来するのか……というところから評価が必要ですが、例によって「アイヌ語由来だったら」という仮定で続けさせてください。

「耶似様内」という山名は、「ヤニサマナイ」という川があり、そこから転じた……と考えるのが自然かと思います。士別市(旧・朝日町)東部に「似峡」(にさま)と読む地名があり、類似性を考えたくなります。

似峡」については色々な説がありましたが、nisey-oma あたりではないかとの結論に至っていました(実に面白くない解なんですが)。同じような考え方を「耶似様内岳」に当てはめると、ya-nisey-oma-nay で「陸・崖・そこに入る・川」と読めそうな気もします。

ユニークなのは、頭に ya(陸)がつくところでしょうか。雨竜川の流域にはいくらでも nisey(断崖)があったと思われますが、ここの nisey は川沿いではなかった(川から少し離れていた)ので ya を冠した、と言った想像ができそうです。

知里さんの「──小辞典」には、nisey の項で「②【チカブミ】川岸の崖」とありました。この流儀を当てはめるならば、ya-nisey という耳慣れない表現も納得できそうな気がします。

「耶似様内岳」の南を「共栄クローム沢」という名前の川が流れていますが、山田秀三さんはこの川が「ヤニサマナイ」だった可能性があると考えたようです(残念ながら断定はできず)。雨竜川から離れたニセイ(崖)なので「ヤニサマナイ」だったのだ、と考えられるかもしれませんね。

白地畝山(しろじせ──)

sirar-chise??
岩・家

(?? = 典拠なし、類型あり)

雨竜川の西支流である「朱鞠内川」を西に遡ると、最大の北支流である「石油沢川」と分岐した後、すぐに「中股沢川」という北支流と分岐します。「白地畝山」は中股沢川と石油沢川の間に聳える標高 580.2 m の山です。

名寄から朱鞠内を経由して羽幌に向かう「名羽線」(めいう──)という鉄道路線の計画があり、実際に工事も行われましたが、結局完成することはなく放棄されました(未成線)。計画では「白地畝信号場」が設置される予定だったとのこと。

この「白地畝」という山名ですが、おそらくアイヌ語の sirar-chise で「岩・家」、すなわち「岩窟」だったのでは、と思えてなりません。「シラッチセ」という地名(山名、または川名かも)に「白地畝」という字が当てられ、そして読み方が字相応のものに変化したのでは……と思われます。

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