2023年2月11日土曜日

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「日本奥地紀行」を読む (144) 久保田(秋田市) (1878/7/25)

 

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十四信」(初版では「第二十九信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

結婚は民事契約

久保田(秋田)で天候の好転を待っていた筈のイザベラは、何故か宿の主人の姪の結婚式にしれっと参列しているのですが、「嫁入り衣装」や「家具」について一通り記した後に「結婚は民事契約」と題した一節を記していました。流石にオフトピすぎると判断したのか、普及版ではサクっとカットされていますが……。

 結婚は僧侶・神官によって厳粛に祝われなければならないとしばしば書かれてきたが、これは間違いです。日本における結婚は純粋に民事的な契約である。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.101 より引用)
「ん、『結婚は民事契約』って、何を当たり前のことを……」と思ってしまいますが、イザベラによると日本での結婚は「いかなり宗教儀式も必要とされていない」とのこと。

結婚は、戸長役場の登録によって法的に成立する。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.101 より引用)
確かに、結婚に必要なのは婚姻届だけですからね。

これらの人々は仏教徒であったが、その場には僧侶すら一人もいなかった。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.101 より引用)
これはイザベラのナイスなボケなのか、それとも純粋にそういった疑問を抱いたのか……。後者だと思いたいのですが、当時は「神前式」という習慣が存在しなかったということなんでしょうか。

「神前式」は 1900 年に執り行われた(後の)大正天皇の結婚式が起源という説もあるみたいですね。となると 1878 年には「神前式」は存在しなかった、と言えるのしれません。

結婚式

話題は結婚式の描写に戻りました。ここからは「普及版」でもカットされること無く収録されています。

 花聟は二十二歳、花嫁は十七歳で、非常にきれいである──彼女が豊富に塗りたくっている白粉を通して見たかぎりでは。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.272 より引用)
ここなんですが、原文では次のようになっていて……

The bridegroom is twenty-two, the bride seventeen, and very comely, so far as I could see through the paint with which she was profusely disfigured.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
この文章を、時岡敬子さんは次のように訳されていました。

 花婿は二二歳、花嫁は一七歳で、たっぷりと化粧を施したせいでかえって美しさを損ねている姿から判断したかぎりでは、とてもきれいな顔立ちでした。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.390 より引用)
これを見た限りでは、時岡さんの訳のほうがより正確に思えますが、高梨さんの訳もある意味「完成された訳」という印象を受けるんですよね(必ずしも「貞淑な訳」では無いかもしれませんが)。イザベラの、おそらく悪意のない「軽い皮肉」がうまく日本語化されているように思えるんです。

夕方近く彼女は乗り物によって花聟の家に送られてくる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.272 より引用)
この「乗り物」は、原文では norimon となっていました。さすがのイザベラも英訳できなかった……ということでしょうか。

前に小さなテーブルが置かれて、その上には飲み口が二つあるやかんがあって、酒がいっぱい入っていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.272 より引用)
「飲み口が二つあるやかん」とは……。原文では次のようになっていました。

A low table was placed in front, on which there was a two-spouted kettle full of saké, some saké bottles, and some cups,
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
確かに a two-spouted kettle とありますが、時岡さんの訳では……

低いテーブルが前に置かれ、その上にはつぎ口のふたつついた銚子に酒を満たしたものと、酒の瓶、盃が置いてあり、
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.390 より引用)
なるほど、「やかん」ではなく「銚子」ではないか、ということですね。それでも「つぎ口がふたつついた」が若干意味不明なのですが、ググってみると https://www.gekkeikan.co.jp/enjoy/culture/vessel/vessel01.html に「もともとの『銚子』」という写真が紹介されていました。イザベラが描写した「つぎ口がふたつついた銚子」と *完全に一致* してますよね?

 次に花嫁と花聟はいったん退席したが、まもなく他の礼服を着て現われた。しかし花嫁はまだ白い絹のヴェールをつけていた。これはいつかは彼女の経帷子きようかたびらとなるのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.273 より引用)
花嫁衣装がいつか経帷子に化けるとか、イザベラはどこでこのような知識を身に着けたのでしょう……?

古い金塗りのお盆が出され、それに三個の盃がのっていた。これに花嫁付き添いの少女二人が酒をつぎ、舅と花嫁の前に出した。舅は三杯飲んで、盃を花嫁に手渡した。花嫁は二杯飲み、舅から箱に入った贈り物を受け取ってから三杯目を飲み、それから盃を舅に返した。彼はまた三杯飲んだ。次に米飯と魚肉が出された。その後に花嫁の母は二番目の盃をとって、三度酒を満たし、干した。その後に彼女はそれを花嫁に渡した。花嫁はその盃で二杯飲み、姑から漆の箱に入った贈り物を受け取り、三杯目を飲み、その盃をこの年配の婦人にやった。彼女はまた三杯飲んだ。次に汁が出された。それから花嫁は三番目の盃から一度飲み、それを夫の父に渡した。彼はさらに三杯飲むと、花嫁はまたそれを受け取り、二杯飲み、最後に姑がさらに三杯飲んだ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.273 より引用)
これは……明らかに「算数の問題」ですよね? 花嫁の痛飲ぶりが際立つとともに、花聟は一体どこへ……という疑問も。

もし私が努力したようにあなたも明察力をもって観察するならば、二人がそれぞれたっぷりお酒の入った盃を九杯飲んだことになるのに気がつくであろう。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.273 より引用)
えーと……。「花嫁は二杯飲み」「三杯目を飲み」「花嫁はその盃で二杯飲み」「三杯目を飲み」「花嫁は三番目の盃から一度飲み」「花嫁はまたそれを受け取り、二杯飲み」とあるので……九杯で間違いないですね(!)。

イザベラは、豪快な回し飲みが目の前で繰り広げられたにも拘わらず、誰も悪酔いしていないことが気になったようで、次のような注をつけていました。

*原注──これほど多く飲まれる酒がどういう種類のものか、私は知ることができなかった。しかしその後見苦しい酔いぶりが何もなかったところを見ると、それは軽い大阪葡萄酒か、あるいは軽いお酒だったにちがいないと思う。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.273 より引用)
「大阪葡萄酒」というのが謎ですが、原文でも Osaka wine とあるんですよね。

 この後に二人の花嫁付き添いの少女は、二つの飲み口のついたやかんを上げて、結婚した両人の口先にそれを差し出した。彼らはそれから注いで代わるがわる飲み、ついに中の酒を空にした。この最後の儀式は、人生の喜びも悲しみも共に味わうということを象徴しているといわれる。かくして彼らは、死亡か離婚かで別れるまでは決して離れることのない夫婦となったのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.274 より引用)
イザベラは「結婚は民事契約」と記していましたが、ここまでを見ると「結婚は酒の勢い」のような気も……(汗)。

なお、ここまでの回し飲みプロセスは親族・親戚のみで行われるとのこと(イザベラは特別ゲスト扱いだったんですね)。この後で客を招いて披露宴が行われることになります。

その点から見た式の興味を除けば、式そのものはたいそう退屈で気のめいるような沈黙の中で行なわれるので、見ていて倦きてしまう。顔を白く化粧し、唇を赤くぬった若い花嫁姿は、あやつり人形のように動いて見えた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.274 より引用)
花嫁が「あやつり人形のように動く」というのは、今の神前式でもそんな感じのような……(なかなか的確な表現ではないかと)。

妻の地位

「普及版」では「あやつり人形のように動いて見えた」で「第24信」が終わっていますが、「初版」の「第29信」では「妻の地位」と「女性のための日本の道徳律」というセンテンスが続いていました。

 私が知りうる範囲から思うには、日本人の妻はわれわれが最も耐え難いと考えてしかるべき状況下においても貞潔で、誠実です。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.102 より引用)
これは……。「昔の女性」は俄に信じがたいレベルで「貞淑」でしたが、それはそれだけ抑圧されてきたからだ、とも言えそうな気もします。貞淑なのは良いことかもしれませんが、抑圧は良くないですよね。

 親子関係は夫婦関係より、明らかにはるかに高いものとみなされ、<妻> なるものを <母> なるものに沈めてしまう傾向があります。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.102 より引用)
あー……。「伝統的な家族観」というヤツだと思われますが、つまるところは「封建的な家族観」であり「家父長制」というヤツですよね。

父親が子どもの召使とするならば、母親は子どもの奴隷で、第一の義務は子どもを産み、ついで世話をし、仕えることにあり、彼女の運命は、非常に苦労する傾向にありますし、他方、結婚は彼女の位置をしゅうとめの奴隷の位置におくのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.102 より引用)
もう、読むだけでグサグサ胸に刺さる文章ですよね。反芻するのも嫌になります……。

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2 件のコメント:

<セルダン> さんのコメント...

「つぎ口のふたつついた銚子」というのは、雛飾りの三人官女の右の人が持ってる「長柄銚子」的なヤツなのではないでしょうか?

Bojan さんのコメント...

<セルダン> さん:
本文中で言及した月桂冠の Web サイトにも「金銅鶴亀文長柄銚子」とあるので、「長柄銚子」と見て良いかと思われます。三人官女は盲点でした……。

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