2019年10月14日月曜日

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「日本奥地紀行」を読む (93) 沼(関川村) (1878/7/10)

 

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在しますが、今日は引き続き、「普及版」をベースに「第二十二信」を読み進めます。

陸の孤島

イザベラ一行は、現在の JR 米坂線・越後片貝駅にほど近い、関川村の沼集落にやってきました。沼集落は、現在は国道から少し離れてしまっていますが、当時は国道の「片貝トンネル」の南に位置する「榎峠」がメインルートとして使われていた……ということだと思います。榎峠を下りると、荒川の南支流である「沼川」の西側に出ることができます。

私はその夜とぼとぼと沼という部落に入ると、彼らの最低の生活状態を見た。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.204 より引用)
イザベラが、曲がりなりにも人力車で移動ができたのも関川村下川口のあたりまでで、その先は馬上、あるいは徒歩での移動だったと考えられます。イザベラが「とぼとぼと」集落に入ったのも当然の結果だったのかもしれません。

しかし、お疲れモードのイザベラが辿り着いた集落の状態は、これまでになく酷いものだったようです。

あるみじめな宿屋に行くと、そこの女は出迎えて言った。「すみませんが、とても汚くて、こんなりっぱなお客さんをお泊めすることはできません」。彼女の言う通りだった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.204 より引用)
とてもイザベラ一行を「泊めることができない」と言わしめた宿屋の状態は、次のようなものでした。

たった一つの部屋は梯子を上ってゆくところにあり、窓はがたがたしており、火鉢には炭はなく、家には卵もなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.204 より引用)
「火鉢には炭もなく」まではなんとなく理解できるとして、「家には卵もなかった」というのは「ふーむ」と思わせます。逆に言えば、宿屋には生卵があるのが当たり前……と言った感じだったのでしょうか。「養鶏場」とまでは言わないものの、小学校の鶏小屋のような感じで、鶏を飼っている富農?がいた、ということなんでしょうか。

もっとひどいことには、ここには駅舎がなかった。この部落には馬は一頭もないので、翌朝になって、五マイルも離れている農家に人をやり、交渉の結果ようやく馬を手に入れた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.205 より引用)
「5 マイルも離れている農家」は、距離的には現在の越後金丸駅近くの金丸集落あたりにあったのでしょうか。

イザベラが記した沼集落の姿はとにかく酷いものですが、戦前の地形図を見てみると学校(小学校?)の存在も描かれていますし、集落には現在も多くの建物が軒を連ねているようです。……なんと言うか、イザベラがあまりに酷い調子で書き記しているものですから、流石にフォローが必要な気がしたもので。

多人数の同居

宿屋の女主人は「イザベラ一行を泊めるのはあまりにも畏れ多い」と固辞したものの、イザベラにとっては他にあてが無いわけで、結局、沼(関川村)で一泊することにしたようです。おそらくは日が暮れる前の話なのだと思われますが、イザベラは「好奇心から」戸別調査を始めてしまいます。

日本では、戸数から人口を推定するには、戸数を五倍するのがふつうである。ところが私は、好奇心から、沼の部落を歩きまわり、すべての日本の家屋の入口にかけてある名札を伊藤に訳させた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.205 より引用)
イザベラ姐さん、「好奇心から」始めたにしてはちゃんと推論を立てているあたり、やはり只者ではない……少なくとも単なる「冒険者」では無いですよね。

そして、家に住む人の名前と数、性別を調べたところが、二十四軒の家に三百七人も住んでいたのである。ある家には四家族も同居していた。祖父母、両親、妻と子どもをもつ長男、夫と子どものいる娘が一人か二人いるのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.205 より引用)
イザベラの戸別調査の結果は驚くべきものだったようで、基準である「1 戸に 5 人」を大きく上回る「1 戸に 12 人」が平均だったとのこと。ただ、現在でも「二世帯住宅」というものが存在するわけで、イザベラの「1 戸に 5 人」という推論は「核家族化」を先取りした……要は都市部での基準だった……ようにも思えます。

そして論点は日本の「家制度」と、家制度によって齎される女性への不当な扱いに移ります。

長男は家屋と土地を相続するものであるから、妻を自分の父の家に入れるのがふつうである。したがって彼女は姑に対して奴隷同様となる場合が多い。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.205 より引用)
「嫁が姑に対して奴隷状態」というのは封建社会の遺物の筈ですが、何だかんだで現在でもありそうな話でもありますね。イザベラは宿屋で「身の上相談」的な聞き取りを欠かさなかったようで、当時の日本女性の窮状を良く理解していたようにも思えます。

きびしい習慣によって、彼女は自分の親類を文字通り捨てて、彼女の「孝行」は夫の母に移される。姑は嫁を嫌う場合が多く、子どもが生まれないときには、息子をそそのかして離婚させる。私の宿の女主人も、自分の息子に妻を離婚させている。その理由といえば、彼女は怠け者だというだけのことであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.205 より引用)
「子どもが生まれないときには」というのは、いかにも「家制度」の悪弊と言った感じがして興味深いですね。そして女性が「産む機械」として認識されていたことも良くわかります。

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