2018年9月22日土曜日

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北海道のアイヌ語地名 (565) 「別着の沢川・ホロカン川・土伏川」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

別着の沢川(ベっちゃくのさわ──)

pe-sak(-nay?)?
水・無い(・川)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
北見市南部を流れる常呂川の南支流です。「東西蝦夷山川地理取調図」や戊午日誌「西部登古呂誌」には記載が無いので、もしかしたら元は違う名前で呼ばれていたのかもしれません(たとえば「クツタルベシベ」や「ユツホヲマナイ」などの記録があります)。

このあたりの川は「貴田の沢川」(貴田国平)や「黒部の沢川」(黒部幸太郎・元吉)など、開拓者の名前をつけたものが多いのですが、その中で「別着の沢」という名前は異彩を放っています。NHK 北海道編の「北海道地名誌」には次のように記されていました。

 別着ノ沢 (ぺっちゃくのさわ) 常呂川右支流。アイヌ語水の乾くの意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.431 より引用)
他に参考となる資料がないので、果たして本当かなぁ……という疑いも若干残りますが、確かに pe-sak で「水・無い」と解釈することは可能です。下流部は若干ながらも扇状地のような地形なので、水が伏流することが多かったと考えると、pe-sak と読んだ可能性も出てくるかもしれません。

もっとも、この特徴が「別着の沢川」だけに当てはまるかと言えば、ちょっと怪しいのですが。

ホロカン川

horka-an(-nay?)
U ターンする・そうである(・川)
(典拠あり、類型あり)
JR 石北本線の西北見駅と国道 39 号の間を流れている川の名前です。決して大きな川では無い筈なのですが、なんと戊午日誌「西部登古呂誌」にしっかりと記載がありました。

是より十丁も転太石の上を飛越また刎越して行に
     ヲロカン
右のかた中川、桃花魚此川え上るよし。此処より上えは上らずとかや。其名儀は別の山より落来るといへる義なりと。其水源サルマの方より来る。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.192 より引用)
「別の山より落来る」とはどう解釈したらいいのだろう……と思っていたのですが、永田地名解には次のように記されていました。

Orokan  オロカン  逆流川「ホロカウン」ノ訛ナリ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.471 より引用)
これだと割とすんなりと理解できます。きっと horka-an(-nay?) で「U ターンする・そうである(・川)」なのでしょう。ただ、ちょっと気になるのが、ホロカン川は特に U ターンしているようには見えないのですね。

また、松浦武四郎の言う「別の山より落来る」も相変わらず意味がわかりません。これは一体どう考えれば良いのか……と数分ほど悩んだのですが、何のことはない、両者とも同じことを言っていたのだということに気づきました。

現在、東相内駅の北側を「墓地川」という(凄い名前の)川が流れていますが、この川がどうやらかつては「ホロカン川」と繋がっていたらしいのです。墓地川を遡ると仁頃川の南側にたどり着きますが、これを「其水源サルマ(サロマ)の方より来る」と記したのだと思われます。

また、「墓地川」には「ポン墓地川」という名前の支流があるのですが、この川は北から南に流れています。つまり、この「北から南に流れる」という点を horka(U ターンする)と呼んだのだろうなぁ、と思われるのです。

戊午日誌の「別の山より落来る」が horka という意味だ、というのはちょっと強引過ぎるかもしれませんが、horka した川を遡ると本来たどり着くべき山とは別の山に行ってしまう(ので、それを戒めるために horka と呼んだ)……ということだったのではないかと!(語勢を強めてごまかしたな

土伏川(どふせ──)

to-{mak-un}-pet?
沼・{後ろにある}・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
JR 石北本線の「愛し野駅」(いとしの──)の南を流れる川の名前です。早速ですが NHK 北海道編の「北海道地名誌」を見てみましょうか。

 土伏川 (どぶせがわ) 市街の南にある常呂川左支流。意味不明。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.466 より引用)
ありがとうございます。他にはこれと言った資料がなく、さてどうしたものか……と思ったのですが、古い地図に「トマクウ?ベツ」と記されていることに気づきました。

戊午日誌「西部登古呂誌」にも、確かに次のように記されていました。

また拾丁計も原を過て左りの方
     トマクンベツ
是本川の枝川也。巾五間計転太石原。トマクンヘツとは大なる枝川と云儀也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.187 より引用)
戊午日誌には「トマクンヘツ」とあり、また「東西蝦夷山川地理取調図」にも「マクンヘツ」という川の存在が記されています。となると古い地形図にも「トマクウンベツ」と記されていたと考えるのが自然なんですが、「ン」ではなく「ㇱ」(小書きのシ)のようにも見えるんですよねぇ……。

もともとは to-{mak-un}-pet で「沼・{後ろにある}・川」だったのが、to-mak-us-pet で「沼・後ろ・ついている・川」と呼ぶ流儀もあり、そのうち -mak が略されて to-us-pet で「沼・ついている・川」になり、「とーうし」が「どふせ」になった……という可能性は考えられないでしょうか?(ちょっと苦しい

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