2018年12月30日日曜日

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アイヌ語地名の傾向と対策 (593) 「シカリベツ川・モサンル川・サンル川」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

シカリベツ川

sikari-pet
まわる・川


下川町一の橋の西で名寄川に合流する北支流の名前です。名寄川の支流としてはサンル川に次ぐ規模で、下川パンケ川と似た規模でしょうか。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「シヤリ」という河川が描かれていました。ただこれは「シカリ」の誤字だったようで、丁巳日誌「天之穂日誌」にも次のように記されていました。

 過て
    テレケウシ
    シカリ
    チヘルベシベ
 共に左りの方小川。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.86-87 より引用)

「チヘルベシベ」は現在「アトウシュナイ川」と呼ばれている川だと考えられます。となると「テレケウシ」は名寄本線の幸成仮乗降場の近くで名寄川に注いでいる川のことでしょうか。

「シカリベツ」と言えば、十勝の鹿追町を流れている「然別川」や余市郡仁木町にある JR 函館本線の「然別駅」などを思い浮かべる方が多いと思いますが、下川の「シカリベツ川」も、かつては「然別川」と記されたり、また「然別」という集落も存在していました。

その由来もどうやら全く同じだったようで、sikari-pet で「まわる・川」だったようです。確かに名寄川との合流部から 1.5 km ほど遡ったところで、派手に S 字状のカーブを描いているので、ここから「まわる・川」と呼ばれるようになった……とかでしょうか。

モサンル川

mo-san-{ru-pes-pe}
穏やかな・沙留・{峠道}


下川町幸成の西で名寄川に合流する北支流の名前です。シカリベツ川よりは若干規模は小さいものの、名寄川の支流の中では長いほうです。

丁巳日誌「天之穂日誌」には次のように記されていました。

 並て
    モサンルベシベ
 此処より堅雪のせつはシヨロゝえ越るによろしと。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.86 より引用)

既にご存知の方も多いと思いますが、下川町には「サンル川」という川があります(「サンルダム」を建設中の川です)。「モサンル」は「小さなサンル」あるいは「静かなサンル」と考えることができるのですが、となると「サンル川」も「サンルベシベ」が略されたもの、ということになりそうでしょうか。

「サン」の謎

ということで、「モサンルベシベ」は mo-san-{ru-pes-pe} と考えられるのですが、問題はこの san をどう解釈するかです。丁巳日誌には「シヨロゝえ越るによろし」とあり、また永田地名解にも

Mo san rupeshpe  モ サン ルペㇱュペ  沙留越ノ小路
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.418 より引用)

とありました。沙留(興部町)へのルートだと言うのですが、位置的に若干妙な感じもします。まず、モサンル川を遡って峠を越えたとしても、その先にはサンル川が流れているだけです。そしてサンル川を遡って峠を越えた場合も、イソサム川筋に出ることになりますし、その場合は雄武の市街地の南側にしか出られません。

イソサム川流域ではなく興部町の班渓(ぱんけ)川に出た場合、確かに沙留方面に向かうこともできますが、それであれば何もサンル川を遡らなくても、現在の国道 239 号沿いのルートを取ったほうが楽なのではないか……と思えてしまいます。

ただ、何らかの理由で国道 239 号沿い(かつての名寄本線沿い)ルートが使えなかった……とすると、サンル川を遡って沙留方面に向ったという可能性も出てきます。地形図を見た限りでは、興部川は深く掘れた谷である上に蛇行も多く、安全なルートを取るには何度も渡渉が必要になる(=登り降りが多くなる)ようにも感じられます。

アイヌ流のルート選択

アイヌが使った「道」のルートは、現在でも違和感なく通用するものもある一方で、現在ではとても想像もつかないようなものもありました。意外なルートが選ばれていた理由としては、(1) 勾配の軽視(多少の勾配があっても気にしない)、(2) 最短距離の重視(これが結果的に (1) につながる)、(3) 大河の回避(渡渉回数の最小化)、などがあると感じています。

面白いのは、(1) の「勾配の軽視」はトンネルの掘削で回避できることがあり、結果としてアイヌが使ったルートが現代になって蘇るケースもあるというところです(例:名母トンネルなど)。

仮にアイヌが興部川沿いのルートの使用に消極的だったとするならば、それは (3) 大河の回避(渡渉回数の最小化)という理由があったのかもしれません。

また、丁巳日誌の記述を見た感じでは、土地のアイヌは「沙流越え」のルートとして「サンル川」よりも「モサンル川」を重視していたようにも感じられます。最終的にはサンル川に出るしかないので、何も余計な峠越えが必要になる「モサンル川」を通らなくても……というのは現代人の感覚で、「サンル川」と比べて「モサンル川」のほうが水量が少なく(→ 前述 (3))、また若干距離が短かった(→ 前述 (2))ことから、ルートとして重宝されたと考えられるのです。

同様に、モサンル川の東隣を流れている「シカリベツ川」の場合は「モサンル川」と比べて川の規模が若干大きかった(→ 前述 (3))ことが「選外」の理由だったのでは……と思われます。

……このように考えてみると、「モサンル川」の元と言われる「モサンルベシベ」は mo-san-{ru-pes-pe} で、意味するところは「穏やかな・沙留・{峠道}」と捉えられそうですね。sarsan に変化するのは「r は r の前に来れば n になる」という音韻変化によるものと考えられます。

サンル川

san-{ru-pes-pe}
沙留・{峠道}


既に「モサンル川」の項で語り尽くした感もありますが(汗)、サンル川は名寄川最大の支流で、現在「サンルダム」が完成間近です。

丁巳日誌「天之穂日誌」には次のように記されていました。

    サンルベシベ
左りの方相応の川のよし。此処より堅雪のせつ一日上りて少しの山を越るやソウヤ領ホロナイの源え下るとかや。此辺の土人等はおりおり越よしなり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.85 より引用)

サンル川は上流部で二手に分かれていて、サンル川が東にある「毛鐘尻山」(けがねしり──)の近くから流れているのに対し、支流の「幌内越沢川」はほぼ真北にある「幌内越峠」から流れています。サンル川沿いを通っている道道 60 号「下川雄武線」も幌内越峠を経由して雄武に向っているため、松浦武四郎の地理認識は概ね間違いなかったと言えそうです。

まぁ細かいことを言えば、「幌内川」の水源は西にあるピヤシリ山の麓なので、「ホロナイの源え」というのは厳密には違うのですが。

注目すべきは、「サンル川」というネーミングにもかかわらず「ホロナイへのルート」と記されている点です。「モサンル川」の項で記したように、サンル川を遡ると雄武町のイソサム川流域に出ることができて、また興部町の班渓(ぱんけ)川流域もそれほど遠くありません。

サンル川の名前自体は「サンルベシベ」で san-{ru-pes-pe}、すなわち「沙留・{峠道}」と解釈できるのですが、実際には「沙留へ行く道」としてよりも「幌内へ行く道」として使用されることが多かった、と考えられそうですね。

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