2026年8月21日金曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1424) 「チクニナイ川・パンケシケレベ沢川・ペンケシケレベ沢川」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

チクニナイ川

chi-kus-nay?
我ら・通行する・川
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
むかわ町穂別安住で東から鵡川に合流する支流です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「チク」という川が描かれています。『北海道実測切図』(1895 頃) には「チクニナイ」という川が描かれていて、川の北には「チクニ山」とも描かれています。


戊午日誌 (1859-1863) 「武加和日誌」には次のように記されていました。

     チ ク
右の方小川有。其名義は毒矢を置しと云事なるよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.594 より引用)
これは……。確かに ku は「弓」を意味します。また chi-ama-ku で「我ら・置く・弓」となり、これは「仕掛け弓」を意味します。「仕掛け弓」は獲物が「さわり糸」に触れると矢が飛んで獲物を射止めるという優れ物です。

「仕掛け弓」の鏃にはトリカブト等の毒が塗られているので「毒矢」というのは理解できるのですが、永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Chikuni   チクニ   枯木
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.213 より引用)
これは……(本日ニ度目)。『地名アイヌ語小辞典』(1956) には次のように記されていました。

chí-ni ちニ(ち一ニ) 枯木。[枯れている・木]
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.18 より引用)
「枯れ木」であれば chi-ni であり、chi-ku-ni とはならないような気がします。chi が「枯れている」であり ni が「木」であるのは間違いないので、ku は見なかったことにしたんでしょうか……?

「チク」であれば chi-ku で「我ら・飲む」と考えるほうが自然です。また、地名だと chi-kus で「我ら・横切る」も頻出します。kus の解釈も複数ありそうな感じで、単に「横切る」場合もあれば「通行する」場合もありそうです。

「我ら・通行する・川」?

現在の「チクニナイ川」をよく見てみると、この川を遡って分水嶺を越えると平取町の「シュウター川」(仁世宇川西支流)に出ることができるため、もしかしたら chi-kus は「我ら・通行する」と解釈できるのかもしれません。

松浦武四郎が記録した「毒矢を置く」説は、chi-ama-ku-ama が落ちたということでしょうか。ただその場合、「実測切図」が何故「チクナイ」としたのか……という点で若干の疑問が残ります。

chi-ku-un-naychi-ku-us-nay で「我ら・弓・そこにある・川」と考えることも理屈の上では可能かもしれませんが、一般的には ku-oma-nay で「仕掛け弓・そこにある・川」となりそうな気もします。

既存の解を全否定することになってしまいますが、chi-kus-nay で「我ら・通行する・川」だったと考えたくなってきました。

パンケシケレベ沢川

panke-chi-kere-pet??
川下側・自ら・削る・川
(?? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「チクニナイ川」の北隣を流れる川です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「シケレベ」とあり、『北海道実測切図』(1895 頃) には「ハンケシケレペ」と描かれています。


戊午日誌 (1859-1863) 「武加和日誌」には次のように記されているのですが……

また少し上り
     シケレベ
右の方高山の間小川有。また此名義は五味子多く有るより号る。本名シケレベウンヘツのよし也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.594-595 より引用)
この記述自体は特に違和感の無いものなのですが、川名の順序が現在とは若干異なっています。鵡川の東側の支流とされるものを表にしてみると次のようになります。

戊午日誌北海道実測切図地理院地図
ヘンケヲソツナイペンケオㇱョキナイオソスケナイ川
チクチクニナイチクニナイ川
シユマルフ子ナイ--
-ハンケシケレペパンケシケレベ沢川
-ペンケシケレペペンケシケレベ沢川
ニタカイニタカイニタカイ沢川
シケレベ--
ヘンケシケレベ--
-トプパヌㇷ゚パオマナイ-
-パンケシクト゚ル(無名の河川)
-ペンケシクト゚ル-
-パンケホロカアンペパンケポロカアンベ沢川
-ペンケホロカアンペペンケポロカアンベ沢川
-シユプキウㇱュナイシュプキウシュナイ沢川
-パンケハッタラウシバッタラウシ沢川
-オウコタㇺケㇷ゚-
-ポンチㇷ゚ウシ-
モトツパンケモトツパンケモトツ沢川
ペンケモトツペンケモトツ沢川

「シケレベ」と「ヘンケシケレベ」が「ニタカイ」よりも上流側に存在していたことになるのですが、これを見る限り、『戊午日誌』の記述に不足がありそうに思えます。ただ「実測切図」の川名が 100 % 正しいとも言い切れないようにも思えます。

「シケレベ」は「キハダの実」を意味します。松浦武四郎は「五味子」と記していますが、これはまったく別の植物です。

「本名シケレベウンヘツのよし也」とありますが、sikerpe-un-pet で「キハダの実・ある・川」でしょうか。『萱野茂のアイヌ語辞典』(2010) には「シケㇾペ」について、次のように記載されています。

シケㇾペ【sikerpe】
 シコロ(キハダ)の実. ブドウのような実がなりその実を香辛料として用いる.木の内側の黄色い部分を剥いで乾燥させ粉にしたものを打ち身や挫きをした時水で練って患部に貼ると効き目がある.
萱野茂『萱野茂のアイヌ語辞典』三省堂 p.263 より引用)
これまでうっかり見逃していたような気がするのですが、「木の内側の──」という部分は sikerpe の利用法ではなく sikerpe-ni(シコロ(キハダ)の木)の利用法ですね。

Wikipedia の「キハダ(植物)」の項には次のように記されています。

粘液質やタンニンには収斂や消炎作用があり、打ち身や捻挫に外用される。
(Wikipedia 日本語版「キハダ(植物)」より引用)
『萱野茂のアイヌ語辞典』に書かれた通りの内容ですね。

ここまで見た限りでは、なるほど生薬(の元)として重宝されたのだな……と理解できます。ただ……例によって個人的な印象なのですが、「シケㇾペ」という地名(川名)がちょっと多すぎないか……と思えてきました。「シケㇾペ」自体が何らかの転訛である可能性は無いだろうか……と。

「自ら・削る・川」?

真っ先に思い出されるのが室蘭の「地球岬」で、chi-ke-p だったのでは……とされます。また『地名アイヌ語小辞典』(1956) には {chi-kere}-nupuri で「{削れている}・山」という項目もあります。

つまり「シケㇾペ」は実は {chi-kere}-pet で「{削れている}・川」だったんじゃないか……と。あるいは chi-kere-pet で「自ら・削る・川」と表現したほうが良さそうな気もします。

ここで『戊午日誌』と『北海道実測切図』で「シケレベ」(パンケシケレペ)の位置が異なる(可能性が高い)件が問題になってきます。仮に「シケレベ」が『戊午日誌』の言う通り、「ニタカイ」(=ニタカイ沢川)よりも上流側にあったとすれば、chi-kere-pet で「自ら・削る・川」だった可能性が高くなりそうなのですね。

「パンケシケレベ」であれば panke-chi-kere-pet で「川下側・自ら・削る・川」だったのではないかと……。

ペンケシケレベ沢川

penke-chi-kere-pet??
川下側・自ら・削る・川
(?? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
むかわ町穂別安住で「パンケシケレベ沢川」の北隣を流れる川……ですが、位置には若干の疑義もあります。『北海道実測切図』(1895 頃) には「ペンケシケレペ」と描かれています。


戊午日誌 (1859-1863) 「武加和日誌」には次のように記されていました。

また少し上り
     シケレベ
右の方高山の間小川有。また此名義は五味子多く有るより号る。本名シケレベウンヘツのよし也。また少し上りて同じ方並びて
     ヘンケシケレベ
     モシリハヲマナイ
左りの方小川。此川すじ二ツに分れ、また上にて逢、中洲一ツ有るが故に、此名有りと。中洲をさしてモシリと云也。ヲマは在ると云儀也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.594-595 より引用)
ちょっと重要な点があるので前後を含めて引用しています(この「シケレベ」の位置については「パンケシケレベ沢川」の項の表も参照ください)。

「ヘンケシケレベ」が「右の方」なのか、それとも「左りの方」なのかが少々謎ですが、「同じ方並びて」とあるので「右の方」と判断したいところです。そして「中洲(が)一つある」としていますが、陸軍図を見ると現在の「チクニナイ川」のあたりに大きな中洲が二つ存在することが確認できます。

となると「シケレベ」と「ヘンケシケレベ」は現在の位置で合っていたんじゃないか……と考えてしまいますが、陸軍図をよく見ると現在の「ニタカイ沢川」の北にも小さな中洲が描かれています。

興味深いことに『北海道実測切図』にもところどころに小さな中洲が描かれています。ただ、『戊午日誌』の記述が正しいと仮定すると「シケレベ」と「ヘンケシケレベ」は「パンケシクト゚ル」と「ペンケシクト゚ル」のあたりだった可能性が出てくるのですが、残念ながらこのあたりには中洲は描かれていません。

いずれにしても「右の方高山の間小川あり」とした時点で現在の「パンケシケレベ沢川」と「ペンケシケレベ沢川」とは別の川だった可能性が高くなるかと思われます。「ペンケシケレベ」も山間部に存在していたことが前提ですが、penke-chi-kere-pet で「川上側・自ら・削る・川」だったのではないでしょうか。

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