2025年12月26日金曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1325) 「元神部・御弓内・茶良瀬橋」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

元神部(もとかんべ)

mo-{tuk-an}-pe??
小さな・{われ突出する}・もの
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「元神部川」は厚別川の東支流で、元神部川支流の「元神部左の沢川」が合流するあたりに「元神部」という三等三角点があります(標高 263.2 m)。現在の地名は「新冠町東川」ですが、1954(昭和 29)年までは「新冠村大字元神部」だったようです。

北海道実測切図』(1895 頃) には「キンペカモトカㇺペ」という川が描かれていました。支流の名前は充実しているのですが、「元神部川」 そのものの川名が確認できないような気も……?(見落とし?)


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「モトカンヒ」と描かれているように見えます。

「初代の白樺樹皮」?

戊午日誌 (1859-1863) 「安都辺都誌」には次のように記されていました。

また少し上りて
     モトカンヒベツ
右の方相応の大川也。樹立原の中也。其名義は此川口人家の建て始めは、此処より始まりしと云よりして此名有りとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.98 より引用)
これは……どういう意味でしょう。「雁皮ガンピ」という植物がありますが、道内においては「ガンビ」は「白樺」やその樹皮を意味したとのこと。もしかして「モトカンヒ」を「初代の白樺樹皮」と考えた……ということでしょうか。

意味不明……?

永田地名解 (1891) に至っては更に凄いことになっていて……

Moto kanbe   モト カムベ   元神部村
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.250 より引用)
うん。そうですよね。

最近良くお世話になっている『新冠町郷土資料館調査報告書 3』(1991) には、次のように記されていました。

  • 鈴木源太郎氏によると、モトカンベと呼ばれているが意味は不明という。
(新冠町郷土資料館・編『新冠町郷土資料館調査報告書 3(アイヌ民族文化調査報告 3)』新冠町教育委員会 p.19 より引用)

「小さな尾根」?

あー……。万策尽き果てましたかね……。実はこの項もリライトなんですが、以前の記事では mo-tuk-an-pemo-tu-ka-an-pe という可能性を考えつつ、mo-tukan-pet じゃないか……と考えを改めていました。

ただ今更ながらですが、やっぱり mo-{tuk-an}-pe のような気がしてきました(汗)。「小さな・{われ突出する}・もの」で、やはり川の北側の尾根をそう呼んだのではないかな、と……。

御弓内(おゆんない)

ota-un-nay?
砂・そこに入る・川
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
道道 208 号「比宇厚賀停車場線」の「ブケマ橋」の東(の尾根上)に「御弓内」という名前の四等三角点が存在します(標高 276.8 m)。

「御弓内」は「おゆんない」と読ませるとのこと。『北海道実測切図』(1895 頃) には、三角点のやや北に「オユンナイ」という名前の川が描かれていました。


「実測切図」によると、三角点の北と南に「ペンケオケヤシ」「パンケオケヤシ」という川が流れていることになっていますが、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川名が見当たらないように思えます。

「その名義未だ解せず」

ただ戊午日誌 (1859-1863) 「安都辺都誌」には次のように記されていました。

又少し上りて
     バンケヲユンナイ
     ベンケヲユンナイ
二川とも右の方小川也。其名義未解。此辺より追々両岸高山に成るなり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.104 より引用)
残念なことに「其名義未解」です。

「砂を多く流し出す」?

『午手控』(1858) の「厚別川すじ地名の訳聞書き」には次のように記されていたのですが……

ハンケヲユンナイ
ヲヒル子
 川水出る時は川口え砂を多く流し出すと云事也
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター p.456 より引用)
これは……微妙な書きっぷりですね。「ヲヒル子」が「ベンケヲユンナイ」であるかどうかも不明ですし、どう読めば「河口に砂を多く流し出す」のかも不明です。

「温泉ある処」?

類例を探してみたのですが、平取に「パンケオユンベ川」が存在するとのこと。この川については永田方正が「温泉ある処」としていました。

「砂がそこに入る川」?

「御弓内」こと「オユンナイ」も素直に解釈すると「湯のある川」なんですが、『午手控』の「河口に砂を多く流し出す」という解?が気になります。これまた反則ですが、『午手控』の記述からそれらしい解をひねり出してみると……。

「オユンナイ」が ota-un-nay であれば「砂・そこに入る・川」となるでしょうか。ta の音が抜け落ちるというのは珍しいと思いますが、pitar で「砂原」という語もあるので、o-pitar-ne で「河口・砂原・のような」の ta の音が落ちると「ヲヒル子」に近くなったりしないかな……と(それは無理がある)。

「ヲヒル子」(お昼寝?)はさておき、ota-un-nay は理屈の上では otun-nay になる可能性も一応あるわけで、訛りに訛れば「オユンナイ」になる可能性もゼロではないかな……と言い聞かせようとしている自分がいたりします(まあ「湯のある川」説もどうなんだろう……という気持ちもあるので)。

茶良瀬橋(ちゃらせ──)

charse-nay
すべり落ちている・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
道道 208 号「比宇厚賀停車場線」の橋の名前です。近くに道南バスの「厚賀・太陽線」の「チャラセ橋」バス停があったようですが、路線自体が 2010 年末で廃止されたみたいです。

北海道実測切図』(1895 頃) にはそれらしい川名が見当たりませんが、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ハンケチヤラセ」「ヘンケチヤラセ」という川が描かれていました。


「実測切図」には川名の記入が無かったものの、北海測量舎図には「パンケチヤラセナイ」「ペンケチヤラセナイ」と描かれていました。

戊午日誌 (1859-1863) 「安都辺都誌」にも次のように記されていました。

またしばし過て
     バンケチヤラセ
     ヘンケチヤラセ
此辺両岸とも高山に成りたり。よつて其山の間の川滝に成て落るが故に此名有。チヤラセは滝川の如き川を云なり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.105 より引用)
panke-charse-nay で「川下側の・すべり落ちている・川」と読めそうですね。

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