2026年9月27日日曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1441) 「ラフナイ川・振内・ウクル川」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ラフナイ川

不明
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
厚真町字上厚真の北で厚真川に合流する支流です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川が見当たらず、戊午日誌 (1859-1863) 「安都摩日誌」にもそれらしい川の記録は見当たりません。

『北海道実測切図』(1895 頃) には「ラウ子ナイ」と描かれています。素直に解釈すれば rawne-nay で「深い・川」なのですが……。


地名において「深い」を意味する語は rawne と ooho(oho とも)に大別されるのですが、ooho は「水かさが深い」で rawne は「深く切り立った谷」と言ったニュアンスだとされます。

実際には ooho が「深く切り立った谷」を意味するケースもあるように見受けられますが、rawne で「水かさが深い」を意味するケースはちょっと記憶にありません。

今回の「ラフナイ川」は厚真川の西の湿地帯を流れる川で、水源は安平町との境界の近くの丘陵地帯です。見事なまでに「深い」要素が皆無に思えるのですが、湿地帯を流れる川なので「底なし沼」のような状態で、足を踏み入れるとズブズブぬかるむが故に「深い」と呼んだ……といった可能性は(一応)あるでしょうか……?

「ラウ子ナイ」ではなかったとしたら

あるいは「ラウ子ナイ」ではなく「ラフナイ」が正解だったとしたら……。rap-ne-i で「両翼・のような・もの」とか、あるいは rap-nay で「両翼・川」という可能性も考えられるか……とも思ったのですが、それらしい地形が見当たらないようにも思えます。敢えて言うなら上流部の「三ケ月沼」ですが……。

現地の地形からそれらしい地名を探るという反則技を試してみるならば、恐ろしく流れの遅い川?だったと考えられそうなので、ray-ne-i で「死んだ・ような・もの(川)」という可能性はないかなぁ……と思ったりもします。

現在確認できる記録としては『北海道実測切図』の「ラウ子ナイ」のみですが、現地の地形を考えると rawne-nay とは考えづらいというのが正直なところです。そのため現時点では「不明」とすべきかと思います。

振内(ふりない)

hure-nay
赤い・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型多数)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
厚真町字豊沢の北西、字上野の北東にある山の頂上付近に「振内」という名前の三等三角点(標高 53.2 m)が存在します。「点の記」によると「振内」は「ふりない」と読むとのこと。

『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) や『北海道実測切図』(1895 頃) にはそれらしい地名・川名が見当たりませんが、陸軍図には、三角点の北北西に位置する厚真町字美里のあたりに「振内」と描かれていました。

『角川日本地名大辞典』(1987) で「美里」の項を見てみたところ……

もとは厚真村の一部,カルマイ・当麻内・ノヤスベブト・ノヤスベ太・シュブンコタン・フレナイ・シュブン・振内(ふれない)・下振内・野安部太(のやすべぶと)など。
(『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.1435 より引用)
やはりと言うべきか「振内」は「ふれ(・)ない」と読ませていたみたいですね。なお「フレナイ」の由来についても記載があり……

かつては振内と称された地域で,振内はアイヌ語のフレナイに由来し,「赤い川」の意。地内を流れる小川で,ヤチのようになっていて赤い水を流していたという(厚真の旧地名を尋ねて)。
(『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.1435 より引用)
まずは hure-nay で「赤い・川」だったと見て良さそうでしょうか。hure は「赤い」ですが、hur で「丘」を意味するので、ちょっとだけ嫌な予感もしたのですが……。

ウクル川

{ukur-kina}-us-i
{タチギボウシ}・多くある・もの(川)
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
厚真町役場のある市街地の東で厚真川に合流する支流で、道道 59 号「平取厚真線」沿いを流れています。「ウクル川」の流域は厚真町字宇隆(うりゅう)ですが、陸軍図には「宇久留」と描かれていました。

『北海道実測切図』(1895 頃) には「ウクル」と描かれていました。


『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には見当たらない……と思ったのですが、よく見ると川の西側(左側)に「ウクル」と描かれていました。このあたりの「東西蝦夷──」は「チケツヘ」が東側(右側)に描かれていたりして、ちょっとミスが多そうにも見えます。

戊午日誌 (1859-1863) 「安都摩日誌」には次のように記されていました。

 扨、村を出て樹立原低き処、処々此間の水未だ溜りてぬかりける処を、行こと凡五丁計にして西岸
     ウ ク ル
是左((右))り岸に有、此方よりは不レ見なり。本名ヲル((ク))ルキナウシのよし、其をヲクルキと詰、後またウクルと転ぜしもの也。ウクルは喰草の名也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.466 より引用)
ここでも左右(東西)を間違えていますね。「ウクルキナウシ」は {ukur-kina}-us-i で「{タチギボウシ}・多くある・もの(川)」と読めそうでしょうか。

「ウクルキナ」はちょくちょく地名に出てくる印象がありますが、『植物編』(1976) には「葉柄をよく洗って,細かく切り刻んで飯や粥に炊き込んで食べ,また刻んだのを乾かして冬のために貯えておいた(幌別,白浦)」とあります。松浦武四郎は「喰草の名也」としていますが、確かに矛盾は無さそうですね。

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